いつかの時代、どこかの国。ある、晴れた冬の日のこと。
一人の青年が、雪の薄く積もる林まばらな山道を徒歩で抜け、大きな街にたどりついた。この王国の首都である、堅牢な城塞都市。
もうすぐ日は暮れる。赤い日に照らされる街門が、閉ざされる前についたのは幸運だった。さもないと一晩、この凍てつく夜に外壁から閉めだされてしまう。
青年は、旅商人だった。雨露をしのぐ頑丈な皮革の上着に、大きな背負い袋、そして旅の助けと同時に護身用の長杖の装備で国中を歩き回ってきた。
そして価値も知られずに半ば捨て置かれている掘り出し物を探しては仕入れ、珍重されそうな街で売って生活していた……
商人の仕事とはそうなのだ。なにより目利きの見識が問われる。元手はとにかく安く仕入れ、売れる相手にはできるだけふっかける。
一旅を終え安堵し商人は街に入ろうとしたが、その門のところで一人近づいてきた。見れば、法衣をまとった神官だった。神官は歌劇を演じるような口調で言う。
「ようこそ、旅人よ。空からの声、心からの音色に耳を傾けられよ。天にましますわれらの主は、すべての罪を許されます。金貨一枚をお布施されよ。それであなたの魂は救われることでしょう」
神官は免罪符を売りつけようとしているのだ。商人はしぶっていた。免罪符に金貨とは、法外な値段だ。それだけあれば、ふつうの町民家庭が一ヶ月は生活できる。金貨は、十二枚の銀貨に換えられる。銀貨は二十枚の銅貨だ。銅貨一枚は、パンが一斤もしくはビールが一杯買える額だ。商人は淡々と話した。
「ぼくの母は。一昨年、胸の病気に掛かって亡くなりました。そのときに、ぼくは病気が治るようにと、金貨五十枚も教会にお布施しましたよ。でも、母は助からなかった」
神官の顔つきが変わった。声色は穏やかだが、焦りの色が見える。
「お金の問題ではないのです。あなたの母君は、信仰が足りなかったのやもしれません。あなたがそうでないことを祈りますが」
歳若い商人は、この神官の言葉にやり場のない憤懣を感じた。
そのときだ。脇から、別の声がした。
「人には人の手では抗えぬ、運命があるものです」
その声の主に、神官は恭しく礼をした。
「これは、司教さま」
豪奢な絹に金糸入りの立派な法衣をまとった司教は、身振りで神官を下がらせた。司教は商人にうなずくと、優しく声を掛けた。
「あなたの母君は、いまは安らかに憩っていますよ。あなたの信仰は、十分に証明された。遠くからようこそ。小さい妹さん連れでは、大変だったでしょう。どうぞ、お通りください」
妹? なんのことだろう。商人は疑問に思った。
商人が後ろを振り返ると、見知らぬ少女がそばに立っていた。長髪で、簡素な布の服を着ている。
少女はにっこり笑うと、商人の手を取って歩き始めた。
少し歩き街中に入ると、手をほどき。商人は少女にお礼をいった。
「誰だか知らないけど、助かったよ。ありがとう、お嬢さん」
少女は微笑みながら、子供特有の高い声で答えた。
「神官も商人も似たようなものね。お金儲けばかり考えて」
「ひどいな、違うよ。だってぼくは役に立たないものを、売ったりはしないさ」
「役に立たない?」
「免罪符なんて、教会の金儲けさ。神の許しが金で買えるなんて考えるから、この世に犯罪はなくならないのさ」
「免罪符に効果が無いというのね。じゃあ、なんでそのロザリオ、首にかけているの?」
「ロザリオは母から貰ったものだ。別に信仰心なんてないが、持っていないと異端や邪教徒とみなされて火あぶりにされるからな」
「あなた、神様信じないの?」クスクスと、からかい半分の声。「ひょっとして悪魔を崇拝しているとか?」
「まさか。ぼくは、天国にも地獄にも縁がないな。信じられるのは、金だけさ」
「それってわたしと同じ」
「きみも守銭奴かい」
「ぶ~っ。わたしはお金には興味ないわ。あなたと同じなのは、天国にも地獄にも縁がないってこと」
「じゃあ、これはどうかな?」
商人は冗談混じりに、少女にロザリオを突きつけた。
「やめてやめて!」少女はあわてて後ろに下がった。「苦手なのよ、神様って」
「きみは悪魔なのかい」
商人は悪戯っぽく尋ねた。
その問いに、少女はさらりと答えた。
「いえ、妖精よ。あなたの守護精霊。天国と地獄の狭間、つまりこの地上に住まうもの」
商人は可笑しく思ったが、子供の無邪気な戯言を馬鹿にするような人間ではなかった。ほほえましい、可愛らしい少女だ。
「小さいころ、母から聞いたことがあるよ。妖精は人の子の誕生と、ともに生まれる。現実に姿は見えなくても、ずっと子供の身を守ってくれる。でも、子供が妖精の存在を否定すると死んでしまうとか」
「そのとおりよ」
「じゃあ、ぼくはこう言う。妖精なんているわけがない」
商人は、少女に指を突きつけた。少女はぱっと、その指を払いのけた。
商人は、皮肉っぽく言う。
「ほら、消えない。きみは妖精じゃない」
「あなた、本気で言っていないでしょ」少女はぷうとふくれた。「二度と言わないでね。約束して」
「ごめん、約束するよ。さっきはほんとうにぼくのこと助けてくれたもんね、妖精さん」
商人は少女の頭をなでると、腰のベルトにいくつもぶら下げてある小袋を一つ取った。少女に手渡す。
「お礼にあげるよ。キャンディだ。おやつにしてくれ。じゃあ、もう暗くなってきたから、はやく帰りな」
「ありがとう。おじさんはどうするの?」
「ぼくは、王宮に呼ばれているんだ。これから城へ入るよ」
「お城へ? おじさんが?」
少女は意外そうな目で商人を見つめた。何故ってふつうの民間人は王城には立ち入り禁止なのだ。国王への直訴も死の厳罰とされている。
「そうだよ、何故って元締めの大商人に、紹介状を貰っているんだ。これでも、貴重な商品をたくさん持っているからね。特別に教えてあげるよ。高速帆船の設計図、詳細な辺境地図、秘密の交易路に特産品の種類、隣国豪華絢爛料理のレシピノート、失われていた聖なる経典、古代帝国の兵法書……がいまは主だね」
「紙とか本ばっかり」
「おかげで、盗難にも遭いにくいんだ。泥棒にしたってこんな書類を手に入れたところで、金にするのに困るからね。現金とか宝石とかは、あまり持たないことにしている」商人は懐中時計を取り出して時刻を確かめた。「もう時間だ。ぼくは行かなきゃ。じゃあね、はやく寝るんだよ」
商人はそういうと、時計から目をそらした。前をみると、さっきまでいた少女はもうどこにもいなかった。
翌日の夕暮れ。活気ある大通りに面した街のにぎやかな酒場にて。
「なめられたものだ。買い叩かれたな。は! 足元見やがって。王宮には金銀の硬貨が山の単位で、どうせたくさん貯めこんであるくせによ」
カウンターで商人はつぶやくと、ビールのジョッキをがぶりとあおった。商人は昼間から呑んで、クダを巻いているのだ。
「ものの価値の解らない愚者だな、王宮の貴族どもなんて。あれだけ揃えて、金貨十三枚とはね。一ケタは軽く違わないか? 商売を広げようにも荷馬車も持てやしない。ちくしょう、神なんていねえよな」
と、返事があった。
「それは人の心の中に。だからわたしがいるんでしょ? アメごちそうさまでした、ありがとう、たくさん一袋も」
見れば、となりの席に昨日の少女が座っていた。ぜんぜん気付かなかった。酔っていたかな。商人は、少女にお茶をおごった。
「そうだな、妖精のお嬢さん。母が言っていたな。悪魔は現実に存在するかも知れないが、神は唯、人の心にのみ存在するって」
「あなたって、よくお母さんを引き合いに出すのね。どんな人なの」
商人は少女に酒臭い息を掛けないよう、カウンターに向かってジョッキのビールを見つめながら語り出した。
「……王都の外れの農村の、少しばかり土地を持つただのよくある農民さ。土地に縛られる農奴でないのだけが救いかな。先祖代々、ぼくの祖父母もそうでね。祖父母はたくさんの子供を産んだけど、働き手にならない女の子はなかなか育てられなくて。ぼくの母以外はね。女の赤ん坊は、みんな沈められていたって話だ。
母は丈夫そうな子供だったから育てられたけど。このロザリオだけが財産だった入り婿の父と結婚したんだけれど。ぼく以外の子を産めなくてね。しかたないから、男に混じって力仕事までしていたものさ。それがたたって、胸を病んだよ。
そのころ、ぼくは一人っ子だったからね。畑仕事を全部まかなえるはずもなく。父の反対を押し切って、なけなしの財産を元手に商売を始めた。やってみると意外なほどうまくいってね。金貨何百枚になったかなあ。農民なんて、金貨なんて見ることも触ることも無く死ぬ人のほうが多いっていうのに。
でも、馬鹿高い税金に搾り取られたよ。母が病に伏せてからは、薬代も高くついた。なにより教会への祈祷代でみんな消えちゃった。いまじゃ最初から出直しさ。そんな中、母は結局苦しみながら死んだ。ぼくは、そのとき以来、神なんて信じなくなったね」
「それで、信じられるのがお金だけなの……さみしい話ね」
少女は悲しげに眉根をよせていたが、商人は皮肉に言い放った。
「どうせ、人生に意味なんてないのさ。だったら生きていくのに必要なのは金だろ」
少女は声を上げた。
「そんなことない! 人生には定められた意味はたしかにないけど、目標を作ることはできる。その目標に向かって、みんな生きているのよ。ときにはそれが誰かの役に立ってね。喜びが生まれ、人は絆を作るの」
「ぼくには縁の無い話だなあ」
「あなたにも目標はあるし、あったし、乗り越えてきたはず。思い出して。言葉を覚えたとき。文字を学んだとき。計算ができるようになったとき。それらを使って、初めて商売が成功したとき。お母さんの役に立ったとき。あなたとお母さんには、強い絆が結ばれたはずだわ」
「母は死んだよ。もう、結ばれてはいない。費やした金も戻ってはこない」
「世界は、移ろい行くのよ。お金なら、また稼げばいい。きずななら、また別の人と作ればいい。なにを恐れているの? 失うものより得るものの方が、まだ多い歳でしょう」
商人は、言い返せなかった。少女が正しいことを言っているのはわかる。だが、そんなにまっすぐに前向きに人は生きられるものか。
今年も王国の畑は凶作だった。故郷の村では、年端のいかない娘が身売りされている。貧農の息子が生きるには、募兵に参加するしかない。体力の無い幼児や老人に、死者が出ないことを祈るばかりだ。祈る? 誰に。埒も無い。
そのときだ。突然、ガンガンと金属を叩く音が響いた。あまりに大きく、耳にさわるそれはどこか遠くで響くと、たちまち街中いっせいにひろまり、耳に痛いぐらいになった。非常時の警鐘の音だ。
火災? それとも。
商人と少女、それに酒場客の多くは酒場の上の階へ上り、三階の屋上から周囲の様子を窺った。すっかり暗くなった夜の町。異変はすぐにわかった。たくさんのかがり火が、街門の外に燃え盛っているのだ。
それは、幾千という大勢の農夫たちだった。彼らは鋤や鎌を手に、王都に押し寄せていた。商人は息を呑んだ。これは、故郷の村の若者も混じっているだろう。
「減税を求める農民たちの反乱か。だが……」
警鐘の音に混じって、鋭い呼び笛の音がした。街の警備兵たちが鎖よろいをまとって槍を構えた姿で街路を走り抜け、門へ向けて集結しつつあった。
戦いはあっけなかった。警備兵たちがときの声を上げると、農夫たちはひるんだ。威嚇で矢の雨が降ると、もう大混乱になった。
警備兵たちは機を逃さず突撃した。農夫たちは散り散りになり、逃げさった。さもないものは、突き殺された。
商人と少女は、あちこちに散らばった農夫の遺体に、沈痛な眼差しを送るしかできなかった。
妖精なんて、いないから 中
一人の青年が、雪の薄く積もる林まばらな山道を徒歩で抜け、大きな街にたどりついた。この王国の首都である、堅牢な城塞都市。
もうすぐ日は暮れる。赤い日に照らされる街門が、閉ざされる前についたのは幸運だった。さもないと一晩、この凍てつく夜に外壁から閉めだされてしまう。
青年は、旅商人だった。雨露をしのぐ頑丈な皮革の上着に、大きな背負い袋、そして旅の助けと同時に護身用の長杖の装備で国中を歩き回ってきた。
そして価値も知られずに半ば捨て置かれている掘り出し物を探しては仕入れ、珍重されそうな街で売って生活していた……
商人の仕事とはそうなのだ。なにより目利きの見識が問われる。元手はとにかく安く仕入れ、売れる相手にはできるだけふっかける。
一旅を終え安堵し商人は街に入ろうとしたが、その門のところで一人近づいてきた。見れば、法衣をまとった神官だった。神官は歌劇を演じるような口調で言う。
「ようこそ、旅人よ。空からの声、心からの音色に耳を傾けられよ。天にましますわれらの主は、すべての罪を許されます。金貨一枚をお布施されよ。それであなたの魂は救われることでしょう」
神官は免罪符を売りつけようとしているのだ。商人はしぶっていた。免罪符に金貨とは、法外な値段だ。それだけあれば、ふつうの町民家庭が一ヶ月は生活できる。金貨は、十二枚の銀貨に換えられる。銀貨は二十枚の銅貨だ。銅貨一枚は、パンが一斤もしくはビールが一杯買える額だ。商人は淡々と話した。
「ぼくの母は。一昨年、胸の病気に掛かって亡くなりました。そのときに、ぼくは病気が治るようにと、金貨五十枚も教会にお布施しましたよ。でも、母は助からなかった」
神官の顔つきが変わった。声色は穏やかだが、焦りの色が見える。
「お金の問題ではないのです。あなたの母君は、信仰が足りなかったのやもしれません。あなたがそうでないことを祈りますが」
歳若い商人は、この神官の言葉にやり場のない憤懣を感じた。
そのときだ。脇から、別の声がした。
「人には人の手では抗えぬ、運命があるものです」
その声の主に、神官は恭しく礼をした。
「これは、司教さま」
豪奢な絹に金糸入りの立派な法衣をまとった司教は、身振りで神官を下がらせた。司教は商人にうなずくと、優しく声を掛けた。
「あなたの母君は、いまは安らかに憩っていますよ。あなたの信仰は、十分に証明された。遠くからようこそ。小さい妹さん連れでは、大変だったでしょう。どうぞ、お通りください」
妹? なんのことだろう。商人は疑問に思った。
商人が後ろを振り返ると、見知らぬ少女がそばに立っていた。長髪で、簡素な布の服を着ている。
少女はにっこり笑うと、商人の手を取って歩き始めた。
少し歩き街中に入ると、手をほどき。商人は少女にお礼をいった。
「誰だか知らないけど、助かったよ。ありがとう、お嬢さん」
少女は微笑みながら、子供特有の高い声で答えた。
「神官も商人も似たようなものね。お金儲けばかり考えて」
「ひどいな、違うよ。だってぼくは役に立たないものを、売ったりはしないさ」
「役に立たない?」
「免罪符なんて、教会の金儲けさ。神の許しが金で買えるなんて考えるから、この世に犯罪はなくならないのさ」
「免罪符に効果が無いというのね。じゃあ、なんでそのロザリオ、首にかけているの?」
「ロザリオは母から貰ったものだ。別に信仰心なんてないが、持っていないと異端や邪教徒とみなされて火あぶりにされるからな」
「あなた、神様信じないの?」クスクスと、からかい半分の声。「ひょっとして悪魔を崇拝しているとか?」
「まさか。ぼくは、天国にも地獄にも縁がないな。信じられるのは、金だけさ」
「それってわたしと同じ」
「きみも守銭奴かい」
「ぶ~っ。わたしはお金には興味ないわ。あなたと同じなのは、天国にも地獄にも縁がないってこと」
「じゃあ、これはどうかな?」
商人は冗談混じりに、少女にロザリオを突きつけた。
「やめてやめて!」少女はあわてて後ろに下がった。「苦手なのよ、神様って」
「きみは悪魔なのかい」
商人は悪戯っぽく尋ねた。
その問いに、少女はさらりと答えた。
「いえ、妖精よ。あなたの守護精霊。天国と地獄の狭間、つまりこの地上に住まうもの」
商人は可笑しく思ったが、子供の無邪気な戯言を馬鹿にするような人間ではなかった。ほほえましい、可愛らしい少女だ。
「小さいころ、母から聞いたことがあるよ。妖精は人の子の誕生と、ともに生まれる。現実に姿は見えなくても、ずっと子供の身を守ってくれる。でも、子供が妖精の存在を否定すると死んでしまうとか」
「そのとおりよ」
「じゃあ、ぼくはこう言う。妖精なんているわけがない」
商人は、少女に指を突きつけた。少女はぱっと、その指を払いのけた。
商人は、皮肉っぽく言う。
「ほら、消えない。きみは妖精じゃない」
「あなた、本気で言っていないでしょ」少女はぷうとふくれた。「二度と言わないでね。約束して」
「ごめん、約束するよ。さっきはほんとうにぼくのこと助けてくれたもんね、妖精さん」
商人は少女の頭をなでると、腰のベルトにいくつもぶら下げてある小袋を一つ取った。少女に手渡す。
「お礼にあげるよ。キャンディだ。おやつにしてくれ。じゃあ、もう暗くなってきたから、はやく帰りな」
「ありがとう。おじさんはどうするの?」
「ぼくは、王宮に呼ばれているんだ。これから城へ入るよ」
「お城へ? おじさんが?」
少女は意外そうな目で商人を見つめた。何故ってふつうの民間人は王城には立ち入り禁止なのだ。国王への直訴も死の厳罰とされている。
「そうだよ、何故って元締めの大商人に、紹介状を貰っているんだ。これでも、貴重な商品をたくさん持っているからね。特別に教えてあげるよ。高速帆船の設計図、詳細な辺境地図、秘密の交易路に特産品の種類、隣国豪華絢爛料理のレシピノート、失われていた聖なる経典、古代帝国の兵法書……がいまは主だね」
「紙とか本ばっかり」
「おかげで、盗難にも遭いにくいんだ。泥棒にしたってこんな書類を手に入れたところで、金にするのに困るからね。現金とか宝石とかは、あまり持たないことにしている」商人は懐中時計を取り出して時刻を確かめた。「もう時間だ。ぼくは行かなきゃ。じゃあね、はやく寝るんだよ」
商人はそういうと、時計から目をそらした。前をみると、さっきまでいた少女はもうどこにもいなかった。
翌日の夕暮れ。活気ある大通りに面した街のにぎやかな酒場にて。
「なめられたものだ。買い叩かれたな。は! 足元見やがって。王宮には金銀の硬貨が山の単位で、どうせたくさん貯めこんであるくせによ」
カウンターで商人はつぶやくと、ビールのジョッキをがぶりとあおった。商人は昼間から呑んで、クダを巻いているのだ。
「ものの価値の解らない愚者だな、王宮の貴族どもなんて。あれだけ揃えて、金貨十三枚とはね。一ケタは軽く違わないか? 商売を広げようにも荷馬車も持てやしない。ちくしょう、神なんていねえよな」
と、返事があった。
「それは人の心の中に。だからわたしがいるんでしょ? アメごちそうさまでした、ありがとう、たくさん一袋も」
見れば、となりの席に昨日の少女が座っていた。ぜんぜん気付かなかった。酔っていたかな。商人は、少女にお茶をおごった。
「そうだな、妖精のお嬢さん。母が言っていたな。悪魔は現実に存在するかも知れないが、神は唯、人の心にのみ存在するって」
「あなたって、よくお母さんを引き合いに出すのね。どんな人なの」
商人は少女に酒臭い息を掛けないよう、カウンターに向かってジョッキのビールを見つめながら語り出した。
「……王都の外れの農村の、少しばかり土地を持つただのよくある農民さ。土地に縛られる農奴でないのだけが救いかな。先祖代々、ぼくの祖父母もそうでね。祖父母はたくさんの子供を産んだけど、働き手にならない女の子はなかなか育てられなくて。ぼくの母以外はね。女の赤ん坊は、みんな沈められていたって話だ。
母は丈夫そうな子供だったから育てられたけど。このロザリオだけが財産だった入り婿の父と結婚したんだけれど。ぼく以外の子を産めなくてね。しかたないから、男に混じって力仕事までしていたものさ。それがたたって、胸を病んだよ。
そのころ、ぼくは一人っ子だったからね。畑仕事を全部まかなえるはずもなく。父の反対を押し切って、なけなしの財産を元手に商売を始めた。やってみると意外なほどうまくいってね。金貨何百枚になったかなあ。農民なんて、金貨なんて見ることも触ることも無く死ぬ人のほうが多いっていうのに。
でも、馬鹿高い税金に搾り取られたよ。母が病に伏せてからは、薬代も高くついた。なにより教会への祈祷代でみんな消えちゃった。いまじゃ最初から出直しさ。そんな中、母は結局苦しみながら死んだ。ぼくは、そのとき以来、神なんて信じなくなったね」
「それで、信じられるのがお金だけなの……さみしい話ね」
少女は悲しげに眉根をよせていたが、商人は皮肉に言い放った。
「どうせ、人生に意味なんてないのさ。だったら生きていくのに必要なのは金だろ」
少女は声を上げた。
「そんなことない! 人生には定められた意味はたしかにないけど、目標を作ることはできる。その目標に向かって、みんな生きているのよ。ときにはそれが誰かの役に立ってね。喜びが生まれ、人は絆を作るの」
「ぼくには縁の無い話だなあ」
「あなたにも目標はあるし、あったし、乗り越えてきたはず。思い出して。言葉を覚えたとき。文字を学んだとき。計算ができるようになったとき。それらを使って、初めて商売が成功したとき。お母さんの役に立ったとき。あなたとお母さんには、強い絆が結ばれたはずだわ」
「母は死んだよ。もう、結ばれてはいない。費やした金も戻ってはこない」
「世界は、移ろい行くのよ。お金なら、また稼げばいい。きずななら、また別の人と作ればいい。なにを恐れているの? 失うものより得るものの方が、まだ多い歳でしょう」
商人は、言い返せなかった。少女が正しいことを言っているのはわかる。だが、そんなにまっすぐに前向きに人は生きられるものか。
今年も王国の畑は凶作だった。故郷の村では、年端のいかない娘が身売りされている。貧農の息子が生きるには、募兵に参加するしかない。体力の無い幼児や老人に、死者が出ないことを祈るばかりだ。祈る? 誰に。埒も無い。
そのときだ。突然、ガンガンと金属を叩く音が響いた。あまりに大きく、耳にさわるそれはどこか遠くで響くと、たちまち街中いっせいにひろまり、耳に痛いぐらいになった。非常時の警鐘の音だ。
火災? それとも。
商人と少女、それに酒場客の多くは酒場の上の階へ上り、三階の屋上から周囲の様子を窺った。すっかり暗くなった夜の町。異変はすぐにわかった。たくさんのかがり火が、街門の外に燃え盛っているのだ。
それは、幾千という大勢の農夫たちだった。彼らは鋤や鎌を手に、王都に押し寄せていた。商人は息を呑んだ。これは、故郷の村の若者も混じっているだろう。
「減税を求める農民たちの反乱か。だが……」
警鐘の音に混じって、鋭い呼び笛の音がした。街の警備兵たちが鎖よろいをまとって槍を構えた姿で街路を走り抜け、門へ向けて集結しつつあった。
戦いはあっけなかった。警備兵たちがときの声を上げると、農夫たちはひるんだ。威嚇で矢の雨が降ると、もう大混乱になった。
警備兵たちは機を逃さず突撃した。農夫たちは散り散りになり、逃げさった。さもないものは、突き殺された。
商人と少女は、あちこちに散らばった農夫の遺体に、沈痛な眼差しを送るしかできなかった。
妖精なんて、いないから 中