悪名は無名に勝る、というが。現代の情報化社会、作家になろうと、漫画家になろうと、芸術家になろうとミュージシャンになろうと足掻いているアマチュアは何百万人もいる。

否、いまや一億総作家時代だ。自分のホムペにブログを書いているひとは、数千万人いるのだから。

 実際のところ、プロに勝るアマチュアは何十万人もいるのである。しかし、プロになれるのは数千人だ。

 この辺を誤解している新米アマチュアは多い。例えば、本を読む人は大勢いるけれど、書く人はそうはいないから、自分もプロになれるのではないかと。



 とんでもない誤解である。本なんて、損益分岐点が最低六千冊とされる。それ以上売れなければ金にならないのに、つまり印税を百円として、一年当たり二百万稼ぐとしたら少なくとも二万部は売れなければいけないのだ。

自分を万人に一人の人間と錯覚しているのだろうか?

 無粋な統計だが、偏差値70とは上位3%弱だ。天下の東大早稲田に入れる人間が数百人に一人近くいるというのに、それより遥かに狭き門のプロの枠に入れるとでも思っているのだろうか。



だいたい、金にならない。プロの世界のヒエラルキーはピラミッド型ではなく、極端な尖塔構造をしている。

 年間数千万円稼げるプロなんて、ごくわずかだ。プロとしての収入を一応は得ている者のうち、並みのサラリーマン程度の収入を得ているのは一割もいない。

大半は兼業で、苦労しつつ創作活動をしている。ならば、趣味として楽しんで創作できる締め切りを持たないアマチュアの方が、よほど幸せである。

金を稼ぐなら、勉強するなり身体鍛えるなりして、「堅気の」仕事についた方が近道だ。

事実、わたしは文を書いて一円も稼いでないが、三流私大中退の半端な経歴なのに初任給は三十万円だった。それも無論、バブル崩壊後の不景気な時代で、である。

それに、趣味に酒、昼寝とすっとぼけた履歴書を送ってからでの話だからいまとなっては武勇伝だ。

というか、実務部門において実績、つまり実社会に功績のあるひとのほうが、最初から徒手空拳でプロを目指し足掻く素人より評価される(わたしの主治医だって、本を出している)。



狭き門の話に戻るが事実は、学生時代文芸部、マン研、美術部、音楽部に入っている人はそれぞれ百人に一人はいる。

ここは小説に限るが、そんな無名の新人の小説でも、たいていはおもしろいものだ。ただおもしろいだけで売れないC級作家なんて何十万人もいる。

(ただしここでいう「おもしろい」は、感動するとか感激するとかではなく、単に暇つぶしには、なにもしないよりは楽しめる程度だが)

本屋に並ぶ、そしていつの間にか消えていく闇から闇へ流れる無名のプロの本がB級(これが普通の本である!)。

そしてベストセラーになるのがA級か。このA級になって初めて元が取れる。



対するに、賞を取れるようになるのが、S級の作品だろう。これは、まさにスペシャルな作品といえる。

しかし内容が優れているかはまず、問題とされない。

 いわずもがなや、日本でいちばん権威のある、かの賞が。内容よりも話題性、(登場人物ではなく)作家のキャラクター性、意外性重視なのだから。

 著名な批評家に、読んでいる姿を見られると恥ずかしい作品、などと酷評された作家が翌年賞を取ったり。

 夫婦で同時受賞だったり、二人して若くて一流大在学で美人だったり、経歴が逆に中卒だったり前科者だったり。枚挙に暇がない。

 かといって文学賞を責めるわけにもいかない。大賞には、何千部と作品が集められるのだ。

最初の二ページで面白くないような作品は即ボツ(の、作品でも最後まで読まなければならないのが下読みの辛さという)。

何次にも厳しく選考され、ふるいに掛けられ、最終選考に残った優良作は、どれもすばらしい(正確には、B+ランク以上の作品で甲乙付け難しなのだろうが、それがA級ベストセラーとなるかは選考委員も神ならぬ身、わからない)。

後は、優良作のどれを残す? と判断に困るなら。

先に述べた、話題性のある作品が受賞されるのは自然といえよう。

 故に受賞作はSランクなのである。壁なのである。



さて、C級作品でもおもしろいとは書いたが、わたしを含む(かな?)そうした無名のアマチュアの本は、読むのに「気合」を要する。

これが実にネックなのだ。

読めばおもしろいとはわかっているのに、読む気力がなかなか起こらない。何故って、登場人物と背景世界に感情移入できないから。

 事例として、指輪物語が挙げられる。再読不能の名作、と謳われた小説だが、ひとたびファンになった人ならともかく、初めて接する普通のひと(活字好きじゃない一般人)は、最初の数ページで投げ出してしまう。

 緻密な筆致説明の背景世界が難解なのと、登場人物が活躍するのが遅いためだ、とわたしは考える。

しかし大ヒットしたのは明らかで、その後指輪物語風ファンタジーは日本でも大流行した。特に和製ファンタジーはホームラン商品であり、現代のジャパニメーションの土台となった。

小説だけでなく、コミック、アニメ、ゲームにもなった。こうした流行作品は「読みやすい」のが大半だ。

なぜ読みやすいか。それは、背景世界を指輪物語とかといった歴代の先輩作品に「おんぶ」しているからだ。これは、いわゆるパクリ、というかパロディにも当てはまる。



二次創作作品(パロディ)の方が、一次創作作品(オリジナル)より売れるのはコミケの常識である。

広く知られている人気作品のパロディの方が、背景世界に入りやすいし登場人物も既知、感情移入できる。なにより、大勢が同じ世界観を共有できるから、共感する喜びもある。

無名の新人が乗り越えなくてはならない壁はここにある。



 というか、プロがオマージュだのリスペクトだなどと言い、結局は盗作紛いのパロディ作っている。アニメの話になると、宇宙戦艦○マトはガ○ダムにハドウホウがパクられたし、ガ○ダムは銀河○雄伝説にそおられいをパクられた。銀河○雄伝説はト○プを狙えにとおるはんまーを……と連綿と続いている。00ではファーストにむしろ逆戻りしている。

 ケ○ロ軍曹に至っては、大手出版社&ロボットアニメ総括企業&大手玩具メーカーがスクラム組んだ、もうパクパクし放題、なんでもありの確信犯的無敵アニメとなっていた。



後は、学歴の壁である。高学歴の人と平凡な人が同じ小説を書いて、同じ考証ミスをしたとしよう。

前者なら読者は、「こんなエリートでもこんな勘違いしているんだ」と優越感に浸り、続きを読んでくれる。しかし後者の場合は、読者は「なんだこの馬鹿は!」と読むのを止めてしまうのである。

そうでなくても高学歴の人の本を読むと、自分までその学識に達したかのような優越感(ま、錯覚であるが)を得られて読後感が良いのである。



高名な小説の某講師だが。言いたかないが、その作家の小説は本屋にまず並んでいない。並んでいるのは入門書である。

確かにその入門書は読みやすく面白いし多々核心を突いていて良いのだが。若干、勘違い新人を有料の入門講座に吊るかのような箇所が見受けられる。

例えば、本来短編として送られてきたはずの新人の作風を、「長編向きだ」としたりしたことが何回かあった。

つまらないあげ足を取るような作品なら長くする理由はないし、同じ内容なら短い方が優れているに決まっていると思うが。警句に曰く「長編とは、引き伸ばされた短編である」という。

後は神様視点を止めて、一人の主人公視点にせよとしているところが疑問だ。

三人称神様視点の作品は、コミケで売られる同人仲間のごく数万人の世界に限られていると。

しかし、古典三国志をはじめ、著名な巨匠(S+ランク)の名作ロングセラーが多々神様視点なのを無視している。

あなたの本棚を確かめて頂きたい。主人公一人視点が貫かれるのは、一部のミステリーや冒険もの、活劇くらいではないか? 大半は、章や段落によりキャラクター視点が変わるはずだ。

とはいえ、新人向けのアドバイスである点は重視できる。主人公一人視点の方が、確かに読みやすい。先の感情移入の話だ。

視点がころころ変わるのでは、多忙な下読み選考委員の心証を害するから、が本音かもしれない。



先にコミケ数万人と書いたが。だいたい、活字離れが問題にもされなくなった昨今、活字好きで毎年雑誌以外の分厚い単行本を十冊以上読む小説の読者そのものは、おそらく百万人に満たないのである。

 しかし、情報化社会。活字離れと言いながら、定額通信費で読める携帯小説、ネット小説は盛況である。作者にもお金は入らないから知識と労力となにより文化の垂れ流し状態。

二昔前の、大半が肉体労働者でひたすら職場で汗を流し、新聞とテレビ漬けになっていたころよりはむしろ、大衆が活字漬けになっているのは、皮肉にも現代ではないだろうか。

 現代。情報端末で、気ままに好きな活字、音楽、動画が得られる。

かつて珍奇とされたものは現代では当たり前だし、斬新さといっても予期されていたものが大半だし、かつて癒しとされていたものすら煩わしい。



 ブルーレイを桁違いに上回る記録媒体が開発されたそうだが、それはどのように濫用されるのだろうか楽しみである。

 かつてのテープのビデオ時代からすでに、現代人は時間に追いまわされテレビを見る余裕がなく、ビデオに録画したが。いざ休日となっても寝て曜日で、録画を観る時間を惜しむ。

元気なら、観れば確かに素晴しいとわかっているのに、疲れ切っていては録画なんてほおっておくのだ。

というか、ディスクにせよ本にせよ記録媒体は、観賞用とするよりはコレクションツールであると言える、うがった結論となる。



ここで、わたしの独断と偏見によるランキング、S~Fの七段階評価話題に戻るが。

D級は人によってはC級となるが、嗜好が合わないから気に入らない微妙なラインの作品。このランクが嫌なら、趣味の合う読者を探せば済むことだ。

E級は誰も見向きもしない馬鹿の書いた駄作(自慢じゃないがわたしは、自費出版社で採用されなかった馬鹿作品を作ったことがある)。

ちなみに、数年前に詐欺紛いの自費出版社は大半が倒産してしまったので、いまはわりかし安心だ。いま残っている自費出版社は、新人をおだてる甘い勧誘などしない反面、割安で作ってくれるらしい。

自費出版は、それで売れようと思っているなら勧められないが、人生の記念に、と親族友人内輪で楽しむ本を少数部印刷するなら良いだろう。優良な出版社なら学校の卒業アルバム並の、とても上質で丁寧な装丁の本を作ってくれる。

(ただし無理にローンを組ませようとしたり、ネズミ講紛いの有料執筆依頼枠を勧めてきたりする出版社には要注意である)

F級はズレ過ぎていてなまじうっかり世に出せないくらい、凄まじい作品だ。こうしたものは、ときとしてA級S級に化けるかもしれない。



ここらで、原点に振り返って問いたい。金だのプロアマチュアだのランキングだの狭き門だの学歴だのと下世話で無粋な話題を続けたが。〆

人がなにかを好きになるのに、いちいち理由が必要か?

理屈をいちいちこじつけて、芸術なのか?

改めて考えてみよう。ただ、愛する人がいる。愛するものがある。それだけで「いま」幸せではないのか――