高校の社会実習だったろうか。学生全員で公民館だか何だかへ行き、落語を聞かされたことがある。落語自体は、まあおもしろかったのだが、わざわざ授業で取り上げる必然性があるのか? と疑問に思った。何故なら教師はマンガアニメを否定していたからだ。それなのに落語は肯定する。何故だ? 伝統文化だからか? 伝統文化は内容がどうあれ、尊重されなければならないのか? 繰り返す。確かに落語はおもしろかった。確かに笑えた。だがそれが人生とか勉強とか、道徳とかの美徳にプラスになったかと、問われれば疑問符をあげざるを得ない。
なぜならその落語は、「おもしろかったら正露丸を飲み、くだらなかったら毒掃丸を飲め」などと締めくくられる、シモネタで低俗な話しだったからだ。それならば「愛、勇気、友情」をテーマにした、『単純で幼稚な』少年マンガを読んだ方が、少年の人格形成の上ではるかに得るものはあるはずだ。小説を肯定するくせにマンガを否定する人は、よくこんなことを言う。小説は、活字を読んでから状況を「想像」しなければならない。マンガにはそれがないと。つまり想像力を養う点で、小説はマンガより優れている……という理屈だ。まあおえらい学者さまなら、もっと長く小難しい説明をするだろうが、大筋はこんなところだ。
しかしこんな意見もある。マンガアニメは、絵による描写がリアルで生々しいので現実との区別をできなくし、子供の精神の健全な成長を阻害しひいては少年犯罪を招く……。冷笑派としてはそれなら小説は、状況が視覚的に描写されないから良いのか、ならば先の「想像力を養う」理屈はどこへ行った? と、問いただしたくなる。加えて。その理屈なら絵画はどうなるの。映画は?。娯楽をすべて奪う気か?。
だいたいである。小説とマンガの違いとはなんだ? 「小説は活字だけ。マンガは挿絵付きの違い」。素人眼にはそう思う。まあ小説なら小説の、マンガならマンガの専門家であれば、そんなことはないここも違う! なんて意見も出るだろうが。さて素人は素人なりに、意見を煮詰めよう。物理的には小説であれマンガであれ、紙に記されたインクに過ぎない。それに違いが出るのは、人間の心が介入して初めてである。
小学校で習うと思うが、文字は絵から始まった。象形文字だ。つまり、文字とはもともと書き残したい事柄を、効率よく記すための手段に過ぎなかった。文字と絵は互いに等価値であったはずだ。
こんな意見もある。絵より抽象化された活字の方が、少ないサイズにたくさんの意味、情報を詰め込めるためレベルが高い……。
では聞くが。二昔前は想像だにできなかった、情報技術・情報産業、コンピューターにそのネットワークの発展を、どう思う?
情報理論から(いわば機械の視点から)見れば、人間の使う文字は冗長に出来ている。絵に比べ抽象化されているといっても、まだまだ無駄に大きく削れる部分が多いのだ。だからパソコンの小さなディスクやチップ一枚に、百科事典が丸ごと入ってしまったりする。
とすると? マンガより活字を肯定したのと同じ理由で、活字よりコンピューターの内部情報(まあ機械語とかアスキーコードとか、そんな感じだ)なんかを肯定し、活字を否定すると? SFにありましたね。いや現実にも(マッド)サイエンティスト様が提唱している。人間の脳にコンピューターが埋め込まれ、意志の交換はそれを通して行なう。書く文字話し言葉は失われ、言葉はコンピューターのそれと同化する。
これなら確かに意志という情報を伝達出来る、速度と量は飛躍的に増大するでしょうけど。こんな未来あなたは望みますか?
だから限られた文化しか認めない、なんてひとは。マンガ文化どころか、文学小説活字文化まで、将来絶滅させる危険がある。で、結論。
「漫画を否定する奴は映画マトリックスの世界で、電池にされてろ」