Ⅰ 王国の犬、孤高の狼
それは昔、神話の時代。二千年紀。
『魚(X)』たる人々とそれを住まわせる『水(M)』たる文化。
それらの器たる『水瓶』の完成により、人類は新世紀を迎えられるはずだった。
XM=exam=? その公式たるが水瓶。
答えは誰も知らない。導きに必要なのは柄杓か。しかし誰がそれを使いこなせる?
地上に呼びおろされた神。それを制しえるものがいなくなったとき、文明は終わりを向かえた。世界規模で連鎖的に、「事故」は起こった。
地上を焼き尽くす火炎の侵略。神の炎。
大地をえぐり海と変え、海を蒸発させ砂漠と変えたとされる地獄の爆発。
水瓶は砕け散った。
『融合炉の惨劇』による大破壊から、何年が過ぎ去ったのだろう?
世界は暗黒時代を迎えていた。
そのころ、生き残った人間たちは剣を頼りに。作物、領地をめぐり内乱ばかり続く虚しいだけの小国から、外へ。荒廃した大地へ足を伸ばし、生きる場所を捜し求めていた。
二つの王国の国境に広がる、荒廃した地域。険しい山岳。不毛な砂漠。辺境、と呼ばれるこの地。廃墟と化した町並みは、本当なら人間が寄りつかないはずだった。
だが、その夜は違っていた。喧騒が……戦いの悲鳴が雄叫びが、盛んに辺りにこだまする。崩れ落ちた石造りの家屋。その外壁を取りまくように、戦闘が行われている。
二十にもならない年少の戦士は盾を構えると、敵の懐に飛び込む。ドグの短剣が松明の灯を受けてきらめいた。稲妻のような一閃。続きざまに再度、その次、と。魔力を秘めた軽くとも鋭く強靭な刃が、縦横無尽に宙を裂く。
一見でたらめに振り回している様に見えるが、そうではなかった。敵は、手首、喉元、腹部の出血を誘う急所を次々と負傷し、反撃も出来ぬまま断末魔の悲鳴を挙げた。無残にくずおれ、凶悪な外見の鋸刃の小剣がその手からだらりと落ちる。
ドグは若いながら、熟練した兵士なのだ。王国警備兵。
しかし、勝ったわけではない。敵、角牙のある悪鬼の群れは、ドグたちを飲み込もうとしていた。絶望的な戦いだった。四対、百余とは!
「きりがない! スティール、何匹倒した?」
苦しげな声でドグは相棒に問う。身にまとう頑丈な板金鎧は、身の守りというより足枷になりつつある。
「致命傷は、四体だ」
冷静な声で答える青年。ドグよりさらに場数を踏んだ、老練な戦士だ。賞金稼ぎを生業とする、無頼のハンター。まだ若いとはいえ、この青年は何年も身近で数多の死を見つめ続け、すっかりそれに慣れきってしまっている。
盾と鎧はほぼドグと同じだが、得物が違った。牽制に群がる敵を寄せつけぬようスティールの長剣、ガラスの様な刀身の、魔剣『アイシクル』が巧みに揺れ動く。
「おれは、六匹くらい。フェイクは?」
「数えてるわけ、ないじゃん。でも矢は、全部命中」
石造りの壁を背に、後衛にいる革製の上着をまとった大男が答える。落ち着いた、というよりは間延びした声だ。扱いの難しい巨大な長弓を使いこなす技量は長身ならではだ。
「当たったのは、十二本だね」
「これだけ殺しているってのに! こいつら、なんなんだ? ちっとも怯みやしない!」
「人間じゃ、ないもんね。でも、こいつらだって死ぬことには変わりないよ」
「憎しみに駆られているのよ」
背後から女性の声。木綿の簡素な服を着た彼女は、燃え盛る松明を手に敵を寄せつけまいとしている。つい最近まで、潔癖な彼女は悪鬼を魂ある生き物とみなしていなかった。
「やっと、わたしにも理解できたわ。いままで、人間たちがどれだけ彼らを虐げていたことか。住処と家族を奪い財産を強奪した相手なんて、わたしたちだって許せないものね」
「だからといって。いまさら、彼らとわかりあえるかい?」
と、フェイク。甲高い音を立て、矢が放たれる。
「理想論は、たくさんさ」スティールは言う。剣を払い、敵を一時退ける。「戦争なんて、もともと大義はない。自らの意志無くして徴兵された兵士は、自分の身を守るために、戦うだけさ」
「おまえらしい、な」ドグはつぶやく。「だが、加えて。仲間の身を守る。おまえは、そういう男だよ」
「俺にそんな美徳なんて、ないさ」
「たしかに、昔のおまえは、違ったな。王国の犬、警備兵のおれとかちあう一匹狼、賞金稼ぎの『鋼鉄』。だが、いまは」
ドグは、ふっと笑った。盾をかかげ、悪鬼の刃を受け止めた。それから背後にいる女性に話しかける。
「少し息をつきたい。トゥルー、もう一回頼めるか?」
「駄目、もうはったりは効かないわ」
松明を手に揺り動かしながら、トゥルースは沈痛な声を漏らした。いままで彼女はこの燃え上がる松明を利用し、敵を威嚇していたのだ。火炎瓶を投げたり、火の粉を散らしたり、家屋を燃やそうとしたり。
「代わりに、わたしも前に出るから!」
「だったら、ぼくも!」フェイクがいう。「もう少しで矢が無くなる。そうしたら、剣を使うしかないよね」
「ここまで、か」
ドグが、つぶやく。
「お~い、ぼくの剣の腕を、信用してよ」
「民間人まで前線に出すようでは、戦争は負けさ」
「みんなで協力すれば、なんとかなるはずよ」トゥルースが熱っぽくいう。「もう少しで、夜が明ける。聖なる日の光に、悪魔どもの力は半減する……伝承では、そう呼ばれているわ」
「悪魔?」
フェイクは言うと、弓を放り投げた。剣を引き抜きながら講釈を垂れる。
「どっちが、悪魔だか。これは、かれらにとって独立戦争だからね。人間、という凶悪な支配者に抵抗する」
「わかっているわ。だけど……」
トゥルースも松明を地面に落とした。灯は、消えはしなかったが弱々しく揺らいだ。壁に立てかけてあった長い樫の木の杖を取り、両手に構える。
「前衛を代わろう、トゥルース。スティールとドグは、少し休んで」
フェイクは言うや、戦士というよりは曲芸師の身のこなしで、軽やかに位置替えをした。トゥルースも続く。
「ありがたい、三十鼓動数だけでいいぞ」
フェイクに匿われ、スティールが息をつく。
「だが、夜が明けたら」同じように腕を休め、陰鬱にドグは言う。「視界が開けて、回りにいる敵がみんな、押し寄せてくるさ」
「なにを言うの! 希望を捨てては駄目よ!」
トゥルースは叱咤した。
「すまない、みんな。こんなことに巻き込んで」
冷静に言うスティールだが、息がだいぶ荒い。
「なにを言うの! わたしたち、仲間なんだから」
「仲間、か」滅多に表情を変えない、孤高の刺客の顔が、ほころんだ。「俺は、いつも一人で戦ってきた。死ぬときは、一人と信じていた。だからこういうのは、妙な感じだ」
「負けるはずないわ、あなたは聖剣を持つ勇者なんだから」
「ただの雇われの殺し屋さ」
スティールの笑みは悲しげだった。
「おれこそすまない、みんな」ドグも言う。「おれは、兵士だった。義務の為に死ぬのは当然だ。だが、みんなは違うのだから」
「聞いて!」トゥルースは、声を上げる。「わたしが、突撃して注意を引くわ。みんな、その隙に逃げて!」
「なにを言うんだ、トゥルー! 行なうとすれば、それはおれの役目だ」
再び前に出るドグ。
「聞いて。こんなところで、ここまできて手に入れた、聖剣を失うわけにはいかないのよ。ドグ、あなたはスティールを無事に連れ戻して」
「駄目だ」スティールは断る。鋭い跳躍から突きを繰り出し悪鬼の胸を抉る。「それには、俺はもう体力が残らない。ならば、俺が退路を開く。武器を交換しよう。トゥルース、きみがアイシクルを持ち帰れ」
「だったら、ぼくだって」フェイクは攻勢に出ていた。幻惑させるような特殊な構えから、剣を突いた。予測せぬ攻撃に悪鬼の胸は貫かれる。「にせ勇者、フェイクなんて汚名、返上したい。最後くらい、かっこよく決めたいよ」
「だったら……決まり、ね」
トゥルースは長杖を敵の剣と切り結んだ。剛力というよりしなやかさで刃を押し返す。その隙を突いて、その敵はスティールが仕留めた。
「わたしでは、一人で戻れない。ならば、出来るところまで……戦いましょう」
剣を持つ人間が増えたことにより、一時は攻撃の手を控えた敵、悪鬼も。いまは状況を理解したらしい。弓矢などの援護はもうないのだ。ならば、総攻撃を仕掛けられる……。
悪鬼たちは隊列を詰めた。圧倒的に有利な態勢で、戦う構えだ。
「いまさら、降伏しても、無駄かな?」
呟くフェイク。弱音なのか、冗談なのかはわからない。
「勇者として、死ぬんでしょ」
「だって、ここでみんな全滅しても、ねえ。この英雄嘆を、誰が街に持ち帰るんだい?」
フェイクは言うや、ぱっと跳ねて、トゥルースの横に回った。彼女を、かばったのだ。横合いからトゥルースを狙った敵の刃は、フェイクの剣に阻まれた。
しかし完全に、ではなかった。防ぎ切れず、フェイクは顎を切り裂かれた。血が吹き出す。もう少しそれていれば、頸動脈を切断されていた。
「フェイク!」
三人は、口々に声を掛けた。
「畜生、顔が命の役者に向かって!」
フェイクは荒々しく剣を振るった。当たりはしなかったが、敵は退いた。フェイクはさらに踏み込み一撃を浴びせる。悪鬼はさらに後退した。フェイクは深追いし、剣を振り回す……。だが、手応えはない。
?!
悪鬼たちは、ゆっくり間合いを取った。逃げ散るのでもなく、整然と後退する。何故だ? 四人は戸惑い、周囲を警戒した。
目をこらす……馬に騎上した武装している、軍勢の影! 二十騎はいる。
「敵の新手?」
トゥルースは嗚咽をもらした。
「騎兵相手では、脱出も不可能だ!」
フェイクは血の流れる顔を袖で拭う。
「いや」スティールは冷静に、状況を把握した。「確かに囲まれているが、あれは」
ドグも、結論を下す。
「フォーシャールの軍隊だ」
「助かったか……」
スティールはさっと剣を振り払った。血振り、だ。
「虜囚として、な」
陰鬱に言うと、ドグは短剣を懐に納めた。