師走にヒキガタル in JIROKICHI(柳原陽一郎)/高円寺JIROKICHI 2008・12・13
ゲストギタリスト:加藤一誠(From ヒカリノート)
1.妄想ヘルスメーター
2.訳ありの人
3.恋人はサンタクロース
4.おろかな日々
5.回れ糸車
6.愛のSOLEA
7.徘徊ロックNo.5
8.ゴーイングホーム(家へ帰ろう)
9.毛毛毛
10.クリスマスベル
11.はじまりの歌
12.ブルースを捧ぐ
13.マリンバ
14.決めないの知らないの
15.泣いているのはきみだけじゃないよ
16.満月小唄
17.金返せ
18.さよなら人類(ナゴムバージョン)~プライムミニスターのブルース
前回に引き続き、ヒカリノートの加藤一誠にギターを任せ、ピアノのみの演奏に徹したライブであった。
今回のリストの複線として、柳原陽一郎のブログ(安愚楽days http://nico-vu.air-nifty.com/yanagihara/
)があり、その中で「自分で書いた曲を自分で弾けないというのは~」といった記述があった。
普段演奏しない昔の曲の再演が期待され、季節柄「クリスマスベル」あたりが有力であるとは考えていた。
期待を胸に秘め、整理番号をもらうためにJIROKICHIに並ぶ。
整理番号はまずまずで、立ち見も出る中、よいポジションで鑑賞することができた。
この日は原マスミの座布団ライブもあったが、JIROKICHIの柳原ライブに外れがないので、こちらに行くことにした。
加藤一誠は、前回のJIROKICHIでも好演を見せた。
前回、無料でヒカリノートのCDRを配っていたので、ためしに聴いてみた。
若く、見た目もかわいい少年と好青年の間ぐらいの印象なので、若々しい音楽を想像していた。
ところが、ぎっちょんちょんであった。
音楽は、フォークもフォーク、どフォークであった。
叙情派フォークよりさらに古い音楽と歌詞で、高田渡の再来のようであった。
「かみさん」という名詞を普通に使う感覚は、どこか別の世界のものであるように感じた。
楽器の腕はなかなかよいので、吉祥寺音楽祭あたりに出して、フォーク黎明期の面々とジョイントしてほしいものである。
開演前は普通、BGMが流れるものである。
だが、この日は違い、客がどんどん入っていく中、延々とピアノの調律が続く。
前回も調律したてのピアノだったが、今回はリハーサルの後に調律なので、響きの純度もさらに高い。
冒頭は、「妄想ヘルスメーター」。
いないはずの柴草玲の声が聞こえる。
最初に掛け合いバージョンを聞いてしまうと、いつまで経ってもその印象が強い。
その柴草玲に曲を作ってもらった競作、「訳ありの人」。
カバー曲「恋人はサンタクロース」に続く。
「背の高い」をずっと「手の早い」だと思っていたとのこと。
今回はクリスマス特集とのことで、「クリスマスベル」の演奏が予感される。
とは言え、クリスマスは仏蘭西料理屋で朝から深夜まで働いていた思い出しかないとのこと。
ブッシュドノエルは、今でも食べないとのこと。
「おろかな日々」から一誠君登場。
素早い左手の動きと、歯切れのよいカッティングが冴え渡る。
チョーキングも力いっぱいで心地よいのだが、弱点も一つ見えてきた。
「回れ糸車」「愛のSOLEA」あたりでは、柳原の演奏と比べテンションの強さに差があるように感じた。
最大の弱点、それは「脱力」である。
力を抜いて、さらりと行きたいところでも、全身全霊を込めたチョーキングと速弾きで立ち向かう。
これはもちろん長所でもあるのだが、ステージ全体の単調さにもつながる要素を持っている。
高音でのハモリはなかなか安定しており、この音程でのコーラスが美しいのは長所であるが。
「徘徊ロックNo.5」で前半終了。
ダウンのリズム刻みをギター一本でよくがんばっていた。
後半は、新曲の「ゴーイングホーム(家に帰ろう)」でスタート。
高みに上っていたところでそれが途切れさせられ、元のところに返ろうという内容である。
工場を解雇になった労働者のニュースから思い付いたようだが、原点回帰の志向が見て取れる気もする。
成長型社会から循環型社会へのパラダイムの転換とでも言おうか。
「その人にとっては地球温暖化より株価の暴落より深刻な問題がある」という語りから「毛毛毛」。
その日の衣装(サボテンのアップリケ付き)にもマッチしたラテン調の明るい曲であるが、テーマは抜けゆく頭髪である。
大きなテーマとしては、井上陽水の「傘がない」に通じるものがある。
だが、「頭の砂漠化」「毛髪の合理化」などと、社会問題のキーワードを巧みに主題に結びつける力量は見事と言うしかない。
そして、いよいよ「クリスマスベル」。
難しいために、今まで一度しかライブで演っていないとのことである。
昔、このカップリングの「私は音楽家」を演ったときに、「カップリングの方は自由に作らせてもらった」ということを述べていた気がする。
難しい前奏を一度弾きなおす。
このメロディーは白井良明が作った、と一言。
驚くのは、歌詞の暗さである。
これから死んでいく(おそらく自殺)人間のモノローグが、クリスマスのベルがにぎやかな中、歌い込まれている。
世界で一番暗いクリスマスソングという意図はおそらく達成させられているだろうが、人口に膾炙すとはとても言えない。
「売るため」ということがコンセプト曲の第一義だとすれば、この曲のコンセプトは最大公約数から離れていくことであり、これでは売れない。
アルバム「one take ok」辺りまでの試行錯誤と開拓者精神の源流は、このあたりの曲にあるのかもしれない。
曲自体は込み入った作りなので、Warehouseかphonliteあたりと競演すると、洒落た仕上がりになることが予想される。
「はじまりの歌」も、本日はピアノでの演奏であった。
ギターの一誠君もここで登場。
相変わらず速いパッセージと完全な消音は、心地よさを与えてはいる。
だが、普段に比べて水の流れが速く感じた。
ギターバージョンのときは、水の湧き出す動きやゆったりとした流れなどが肉眼で確認でき、両手ですくい味わう余裕があった。
同じ曲でもピアノになると、水が滴ではなく速い流れを伴った連続体として認識される。
音楽としての心地よさはあるものの、感じる間もなく次の情景へと変化を迎えてしまう。
これは、次の「ブルースを捧ぐ」にも言えた。
ピアノという楽器は、音楽を伝えるには完全楽器と言えるであろう。
それに対し、ギターという楽器は種類は多いが、制約の中で音を組み立てる不完全楽器である。
だが、人間は神ではない。
神を表現するにはパイプオルガンやグランドピアノ、オーケストラがよいのかもしれない。
だが、不完全な人間が不完全な自己を表現するには、作り物ではない手段が必要である。
ギターという楽器は、音楽よりも言葉(思想と言ってもよいかもしれない)を伝えることに力を発揮する楽器である。
そのような思いを、この2曲から抱いた。
もちろん、毎回演るから曲自体のありがたみが減ってきているという意見もあるであろうし、実際「ブルースを捧ぐ」は登場したての方が鮮烈な印象があった。
だが、ギター主体とピアノ主体とで大きく印象が異なるのは間違いないことであった。
ピアノ主体、音楽主体へとある程度志向させていくつもりがあるのであろうが、ギター1本での演奏も捨てがたいものである。
前回も演った「マリンバ」。
「決めないの知らないの」はカッティングが軽やか。
終わりも定番の「泣いているは君だけじゃないよ」で、本編終了。
クリスマスだから、とのことで、アンコールを募る。
「満月小唄」との声が上がる。
確かに、レイトショーなき今、年末に聴いておきたい曲の一つではあるかもしれない。
久々のピアノでの「満月小唄」、しかもこれ以上ない調律のコンディションである。
歌詞はアドリブ部分もあったが、ピアノの「満月小唄」は逆に流れるような幻燈機的な趣がある。
一誠君がまた登場。
しっとりと、とのことで「金返せ」。
ピアノバージョンは初めてだと思う。
「このねこばば野郎」の部分も、普段は声をひっくり返らせるが、少し大人になり上品になった雰囲気であった。
一度引っ込み、再度登場。
正直、「満月小唄」をやらせてまだ出させるかとも思うが、ピアノに着座。
「ナゴムバージョンで」と「さよなら人類」。
中間部は、漢字を読めない総理大臣をテーマにしたブルース。
この内容を「さよなら人類」に戻った後も即興で歌詞を変えて、再提示するところはやはり才能である。
よく演奏する曲も多かったが、やはり「クリスマスベル」を聴ける機会はそうないので、貴重なライブであった。
昔話や世間話は相変わらず面白かったが、全ては書かない。
今後も、JIROKICHIライブは続くようなので期待したい。