山田庵巳ワンマン/渋谷テラプレーン(11/04/21)
1.命の傍らに
2.模範的な黒
3.ゼンマイ式天体師三百日物語
4.あまつぶ
5.山羊でした
6~8.タイトル不明小品3曲(椎名町、高円寺のアパート、鯖の缶詰)
9.赤い月~キャベツ畑でタリラリラ
10.赤い月~桃子は三度振り返る
11.冷たい指先のワルツ
12.ぱぷりかぁな
13.ロールキャベツ
14.スウィートポテト
15.かぼちゃのスープ
16.赤い月~マクロファージ2号
17.右手にたいまつ
18.旭を連れて
19.もしあなたが
20.春夏秋冬
気が付くと、このブログも今年まだ2回しか更新していない。
書き差しだけでも、とは思うが、何だかんだでTwitter以外は更新していない。
やはり詳細に残しておきたいことはあるので、手始めに直近の山田庵巳ワンマンライブについて記しておくことにする。
渋谷テラプレーンで昨年から開催されている、夢のような山田庵巳ワンマンの企画であるが、今回で4回目(テラプレーンでは)を迎える。
出演しそうなライブハウスを毎日チェックし、「山田庵巳」で何千も検索を日々かけていた頃を振り返ると(そのくらいしないとライブに辿り着けなかった)夢のような日々であるが、せっかくのワンマンなのにレポ一つ仕上げることができなかった。
Twitterではリストぐらいは記しているので(それすらない回もあるが)ご興味がある方はそちらを参照していただきたい(http://twitter.com/sprawlworld
まとめたものは、http://twilog.org/sprawlworld
)。
本来であれば、全回しっかりとしたレポを記したいのだが、それではいつになるか分からないので、ひとまずここまでのリストだけでも並べておきたい。
また、この一連のワンマンの契機となった南條ゆういちとのツーマンのリストも記す。
このツーマンライブの企画がなかったら、一連の山田庵巳ワンマンライブも存在しなかったので、この日の企画者、共演者である南條ゆういちには大いなる感謝をしたい。
9/17ツーマン
1.模範的な黒
2.砂の道
3.水辺の妖精
4.命の傍らに
5.機械仕掛けの宇宙
6.春夏秋冬
7.窓辺のダンスホール
8.渚の係長
9.赤い月~桃子は三度振り返る
10.ぱぷりかぁな
11.かぼちゃのスープ
10/18第1回ワンマン
1.模範的な黒
2.砂の道
3.水辺の妖精
4.機械仕掛けの宇宙
5.旭を連れて
6.命の傍らに
7.つきあかり ほしあかり
8.月が僕らを見ている
9.赤い月~桃子は三度振り返る
10.冷たい指先のワルツ
11.あまつぶ
12.春夏秋冬
13.山羊でした
14.狼の夜想曲(やわらかおおかみ)
15.窓辺のダンスホール
16.アイサレー大佐フォーエバー
17.おいとまいたしましょう
18.ぱぷりかぁな
19.かぼちゃのスープ
20.もしあなたが
21.羊のアンソニー
22.高速バナナに飛び乗って
11/24第2回ワンマン
1.模範的な黒
2.砂の道
3.右手にたいまつ
4.道化師テルゼの月曜日
5.渚の係長
6.黒苺夫人(婦人?)の秘密の庭には
7.ダメダメだ大王
8.絵筆
9.ダンスパーティ
10.羊のアンソニー
11.月が僕らを見ている
12.冷たい指のワルツ
13.春夏秋冬
14.高速バナナに飛び乗って
15.水辺の妖精
16.機械仕掛けの宇宙
17.ぱぷりかぁな
18.かぼちゃのスープ
19.刑事キャノンボ
20.火の玉
21.赤い月~桃子は三度振り返る
22.プリンスポプリは振り向かない
23.もしあなたが
2/16第3回ワンマン
1.模範的な黒
2.つきあかり ほしあかり
3.春夏秋冬
4.アイサレー大佐フォーエバー
5.おいとまいたしましょう
6.刑事キャノンボ
7.もしあなたが
8.砂の道
9.絵筆
10.機械仕掛けの宇宙
11.命の傍らに
12.山羊でした
13.窓辺のダンスホール
14.ぱぷりかぁな
15.赤い月~キャベツ畑でタリラリラ
16.赤い月~桃子は三度振り返る
17.かぼちゃのスープ
18.右手にたいまつ(曲中に「北風」を挿入)
この一連のワンマンで、普段演奏される曲は一通り弾かれたように記憶している(思いつくところでは、サンジャックでの「カラスの半蔵」のみ未演奏)。
ワンマンでしかまだ聴いていない新曲も多く、定番化されるのも待ち遠しいところである。
なお、曲目の表記は原則として、mixiの山田庵巳コミュニティの中の「もくもくきょくもく」のトピック(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29825010&comm_id=1781262
)を参照している。
2年前が最終書き込みであったが、トピックの冒頭がどうもこまめに更新されているようで、完成間もない「ゼンマイ式天体師三百日物語」も載っている。
また、「赤い月」の第3部も、ステージではまだタイトルを語っていないはずだが、なぜかこのトピックには記載がある。
明らかに正しくないはずのタイトルもあるが、一応オフィシャルに一番近い情報はここにあると考えて問題ないであろう。
ちなみに、定番曲に「完璧な紺碧」という曲があるが、この曲は寡聞にして知らない。
自分が一曲と認識している曲の、どこかの部分がこの曲なのかもしれない。
なお、第2回と第3回のワンマンは、下記のブログで詳細レポが上がっている。
http://blue.ap.teacup.com/keimag/666.html
http://blue.ap.teacup.com/keimag/683.html
一応、リンクの許可は頂いたので、ご興味ある方は参照されたい。
この日は「模範的な黒」でなく、「命の傍らに」で始まる。
3/11以降のライブでは、むしろこの始まり方のほうが多い。
テラプレーンでのワンマン第3回で「宗教団体から曲の依頼を受けて、失敗した曲」と、嘘か誠か紹介していた記憶があるが、「眠りから覚めて悲しみに包まれる」ような困難多き日々には液体のように身にも心にも染み入る曲である。
8弦ギターの低音弦が四分音符を刻み、広大な大地と若草茂る色彩がその光景として広がる。
その姿は、人によっては「失われた光景」かもしれないし、「遠い過去の記憶」かもしれない。
だが、一本の弱い葦である人間の下に必ず戻ってくることを予感させる光景であり、この大地と緑について元来人間が持っている信頼の原光景とも呼べるかもしれない。
「命の傍らに」は、十年後の音楽の教科書に載り、合唱曲として歌われてもおかしくないだけの、格調高くスケールの大きな曲である。
だが、その神のように大きな存在である大地を実感しながらも、弱き人間は悩み苦しみながらも生きていく姿を、実は主題にしている気がしてならない。
ともあれ、この日は「命の傍らに」で厳かに幕を開ける。
この後、指慣らしと喉慣らしの定番曲「模範的な黒」が演奏されるが、実はこの時点で客席の入りはまださほど多いわけではなかった。
「お気付きかと思いますが、こういう日の方が好きです」「今日はのっけから本気出す!」と語った後、「昔々のある国の~」という物語の冒頭に置かれる一節を歌い、ワンマンでは初めてとなる「ゼンマイ式天体師三百日物語」が演奏される。
Twitterでは書いたが、この曲は20分もの大曲であり、ライブの持ち時間によってはこの曲だけでほとんど終わってしまう。
夜空の月を生み出す職人「天体師」クロワの才能と勇気ある行動、そして三百日目の出来事が、眼前で映像化されるがごとく語られる。
あらすじをここで記すことはさすがに憚られるが、物語の終盤で三拍子の二つの主題がリフレインとして演奏される。
三百日目より前の段階で演奏されたこの二つの主題を、三百日目の場面でもう一度演奏することにより、聴き手は否が応でも過去の場面に引き戻され、それを回想させられる。
だが、それは単にリフレインとしての再提示でなく、何と最初の提示より再提示の部分の方が曲は長く、言葉も多く用いられているのである。
つまり、聴き手は最初に味わう場面の印象よりも、回想として振り返らされる追憶に多くの感覚を充てられ、想い出としての楽しき日々を中心に実感させられるのである。
そして、長い長いこの曲は、最後の最後の結末だけは、具体的に描かれていない。
放たれた矢はクロワに向かったのか、外れたのか、それとも国王に向けられたのか。
すべては、聴き手の想像に任されている。
「このへんで止めると気になってファンが増えることは分かっております」と、山田庵巳本人の言葉はあったが、それのみを鵜呑みにすることはできない。
「物語は結末を完結させるべき」という考え方もあるかもしれないが、個人的にはそうは思わない。
それは、「機械仕掛けの宇宙」「赤い月」が何度聴いても飽きを生み出さないのかにも繋がってくる。
前にも記した気がするが、詩は元来多義的なものであり、その多義性こそが本質であると、以前「詞から詩へ」で天沢退二郎が述べていたように記憶している。
その意味では、完全なる物語を歌にするのは詩の本質とは対蹠的なものであるはずであり、2回目以降の物語は多義性の欠片もない焼き直しになってもおかしくはないはずなのである。
だが、山田庵巳の「機械仕掛けの宇宙」や「赤い月」は全く飽きを生じさせず、それどころか聴くたびごとの喜びすら感じさせる。
もちろん、主題となる旋律やギターの奏法など、音楽を起因とする要素は大きい。
特に、「赤い月」の最後でも繰り返される主題の旋律は戦慄すら覚え、物語のクライマックスの高揚感を増長させるのに充分すぎる力が内在する。
しかし、飽きが来ない真の理由は、音楽のみにあるのではないのである。
一見物語的に思われても、言葉の綴り方、紡ぎ方が完全に美しい詩のそれなのである。
山田庵巳の客層は、自ら作品を創作し生み出している職人が多く、本人もそれを誇りにしているところがあるのをどこかで耳にした記憶がある。
だが、それは単なる偶然ではなく、自分が思うに必然に過ぎない。
本当は「赤い月」のところで記すつもりであったが、筆の勢いに任せて文字にしてしまうと、「赤い月~桃子は三度振り返る」の中で「濡れて崩れかけたダンボールの中に、小さな小さな~」という部分がある。
山田庵巳の言葉は、原マスミなどのように単語自体に破壊力があるわけではない。
一つ一つの言葉には手垢感こそないが、異次元の言葉という日常からの乖離性も有しない。
だが、この「濡れて~」という自然な言葉の連なりの中で、どれだけ多くの時間をかけて、どれだけの労力を割いて結晶化が行われたのかが、聴く者によっては強く感じられるのである。
おそらく、一行の詩の言葉を選ぶのに何時間も(あるいは何日も)費やし、苦しんだ経験のある人間には理解できるはずである。
山田庵巳にはその歌声と演奏の見事さに眼を奪われがちになるが、むしろ言葉にこそ目を向けなければならない。
山田庵巳の紡ぐ世界は、一つ一つが精密に磨き上げられた部品からなる、職人的な見事さを持つ集合体なのである。
山田庵巳を「天才」と呼ぶ音楽関係者はあまりにも多く(特にライブハウスのブッキング関係者)、インターネット上でも方々で目にする。
なるほど、未知の驚きに接した際の第一感の言葉としては至極妥当で、もしかすると本人も「天才」という言葉で片付け深追いしないでいてくれた方が好都合とでも考えているかもしれない。
だが、「天才」という言葉は、用いる人により定義も異なり、そうした言葉で片付けている限り本質には迫ってこない。
一種、思考停止的な評価を下す言葉とも思われる。
「天才」という言葉を別な言葉で説明するところから始めた上で、初めてこの側面からアプローチできるであろうが、自分の中では「天才」は「跳躍(飛躍、飛翔でもよいかもしれない)」という言葉に置換できるのではないかと考えている。
一から百まで階段を一段ずつ上るのではなく、どこかで大きく一度に飛び越して上るところが、「天才」という言葉のニュアンスに近いと個人的には考えている。
原マスミも双葉双一も「跳躍」を感じさせる部分があり、おそらく原マスミの用いる言葉は修業とか訓練とかいったレベルでは永遠に辿り着けないだけの天性のものがある。
それと比して、山田庵巳の言葉は気の利いた言い回しが含まれることもあるが、階段は踏み外しがなく驚く「跳躍」は少ない。
それどころか、1段目と2段目の間に1.4段や1.7段など、世間で許容されている間隔の間さえも緻密に磨き上げられ、それが完成形にも表れている。
下手をすると1階から2階まで登るのに10倍の時間と労力がかかる可能性すらあるが、上り詰めた座標からの景色はまるで別のものであるかのようである。
その完成体を惜しげもなくサラリと披露してしまうところが山田庵巳の美学であり、その緻密な作品と提示を言わば打ちのめされながら体感するのが山田庵巳支持層の求めるところなのだろう。
一つ一つの言葉や音にこだわりを持たない層にとって、どれだけ山田庵巳の魅力を体感するのかは全く分からない。
だが、時間と労力を莫大にかけ、一つの結晶体を生み出そうとする魂にとって、山田庵巳の姿勢と生み出された作品は、心を捉えて離さないだけの魅力を持ち続けている。
「天才」という要素もあるのかもしれないが、個人的には「楽屋を見せない職人魂」の要素を山田庵巳作品の中に強く感じる。
客層が前記のような集まりになるのも、必然なのである。
「天体師」に話題を戻すと、この曲は「機械仕掛けの宇宙」「赤い月」などと比して、異端なところがある。
「天体師」と異なり、この2曲は楽曲世界の最後のカギ括弧が閉じられていない。
結末はあくまでもプロセスであり、「塞翁が馬」ではないが、今後正にも負にも人生の振り子は振れていく可能性がある。
また、物語を一つの象徴としたとき、これは聴き手が自分自身に投影することが可能であり、「あなた自身の物語」と本人も語る内容が真実味を帯びる。
百人の聴き手が、物語から延長される百人の「もう一つの物語」を心の中に描くのである。
だが、「天体師」は異なる。
物語が、実線ではないがカギ括弧で閉じられ、なおかつより具体性を伴った分だけ物語自身の解放性が減少している。
その分、物語としての余韻は大きく、長編映画を味わった後のような感覚に浸れるが、先の2曲のような中毒性は多少犠牲になる。
仮に、クロワの結末を実線で描いてしまったならば、物語自体を繰り返し聴こうという欲求は減少してしまったことであろう。
結末に多少含みを残し、挿入歌「クロポワレチケ」に籠められた想いやメッセージを汲み取らせることにより、辛うじて他の山田庵巳作品のような価値を残している。
だが、先の2曲が「いつでも聴きたい曲」であるのに対し、「ゼンマイ式天体師三百日物語」は「特別な日に心して聴きたい曲」であるという程度の相違はある。
「クロポワレチケ」の一番のメッセージは、「夢が叶うより素敵なことは、夢がいつでも傍にいること」という部分であると考えるが、これはやはり身に心に沁みる。
出典をまるで忘れてしまったが、「夢は叶えるものではない、見るものだ」といった言葉をどこかで聞いたが、これに通じる(というよりも同じか)。
満たされること、成功することは、実は幸福と等価ではない。
明日に向かってしか人間は歩んで行けない以上、現在よりも未来に重心を置かねばならない。
その考えからすると、「全ての夢が叶ってしまうこと」は恐怖や苦痛以外の何ものでもなく、人生の終わりにすら等しい。
山田庵巳の語る物語は、一般的には決してハッピーエンドとは言えないかもしれない。
だが、物語の主人公や周囲の人々に「叶っていない夢が残り続ける」という点では、ある意味幸せな収束であると言えるのではないか。
やがて、曲が終わり、いつの間にかそこそこ客席も埋まり始めていた。
「1部が一番気合が入っていると思います」「竜頭蛇尾」という言葉が用いられるが、確かに気合は入っていた。
最後に、「あまつぶ」が歌われ、第1部は閉じられた。
ちなみに、いつもはなぜかアウェー感満載のワンマンなのだが、この日は比較的いつもの客も少なくなく、その点でも伸び伸びと演奏できたところがあったかもしれない。
休憩を挟み、そして、第2部となる。
最初に「山羊でした」が演奏されるが、よく続けて演奏される「狼の夜想曲(やわらかおおかみ)」はこの日は演奏されなかった。
その代わりに、曲後に語りが入り、「第2部は力を抜くことをテーマ」「今から間違った力の抜き方をデモンストレーションします」という言葉が伝えられる。
「3曲演奏した後、『これは力を抜いているんじゃない、手を抜いているんだ』と言うので、そしたら拍手してください」といったような内容のことを言い、実際演奏後にその通りとなった。
ちなみに、その3曲はいずれも聴いたことのない曲で、もしかしたらこのワンマン用に用意された曲なのかもしれない。
1曲目は「この世の楽園、椎名町」とのことで、おそらく椎名町を称える歌である。
2曲目は「高円寺の安いアパート」を借りたら、金縛りや無言電話が頻繁にあったという歌である。
どことなく、さだまさしのフォーク的な曲調であった。
この2曲は、Aメロが終わるとすぐにエンディングに収束される曲構成であったが、3曲目だけはもう少しだけ展開があった。
3曲目は「鞄の中にありったけの鯖の缶詰詰め込んで」という言葉で始まり、Aメロの後、多少盛り上げてそのまま収束した。
音楽的にも言葉的にもこの3曲目が一番面白く、壮大な物語の序章としてそのまま用いることができるのではないかとも感じた。
これらの3曲は、どれもオチを付けて一丁上がりの小品ではあるが、こうした作品にも曲の組み立てや歌唱などで心惹かれるクオリティの高さが感じられ、本人の意図とは逆に「手を抜いている」をいう印象は微塵も感じさせなかった。
これでも精一杯の力を込めて「手を抜いた」のかもしれないが、日常生活をテーマとする通常の歌い手の作品よりもむしろ緻密な描写を感じることさえできた。
3曲終えた後の拍手は、「約束どおり手を抜いた」ことによる拍手ではなく、「手を抜いても決して失われなかったクオリティ」そのものに向けられたのではないかとさえ感じられた曲であった。
そして、いよいよ名曲「赤い月~桃子は三度振り返る」が演奏される。
実は、第3回で「猫が好きか、犬が好きか」を会場に問うたところ、猫で拍手が鳴り止まず、犬で沈黙となった経緯がある。
「犬の方は誰も聴きたがらないので」と第4回では口にしたが、そのようなことはない。
ただ、猫の方はあまりに名曲なので外そうという気にならないだけのことである。
思えば、最初のテラプレーンのツーマンのときも、後半でこの曲は演奏された。
あの日も、半分ぐらいは山田庵巳と初めて出逢う客層であったはずだが、「窓辺のダンスホール」から「かぼちゃのスープ」に至る一番の峠の部分で演奏されたこの曲は、間違いなく会場全体を包み込んでいた。
話を第4回ワンマンに戻すと、この日は予告編として「赤い月」の第3部に当たる「飛べない青い鳥」を、未完成のため予告編として途中まで演奏して、そのまま「桃子は三度振り返る」に続ける流れを用いた。
実は、その前にも「鳥→猫」の流れで演奏されたことがあったが、そのときより作品は長くなった。
と言っても、物語が先までどんどん進んだわけでなく、むしろ途中の部分が膨らみ巨大化するような印象を持った。
このままだと、「天体師」以上に長い物語になる可能性すらあるが、冗長性を排除していく可能性もあり、全体像がどうなるかは余談を許さない。
先ほども記したが、この曲のタイトルは「キャベツ畑でタリラリラ」とmixiコミュにはあり、美しい羽を失った青い鳥がおそらくキャベツ畑で何かを経験するのであろう。
ちなみに、この完成形は連休明けにもお披露目されるはずであったが、作品が仕上がったという話は寡聞にして知らない。
時間をかけるだけクオリティが高くなるというわけではもちろんないが、納得いく完成形が披露された瞬間に立ち会えたときの喜びはやはり大きい。
最近では、池袋鈴ん小屋での「ゼンマイ式天体師三百日物語」の完成形初演がそれで、最初に予告編が始まった半袖の季節から長い間待った甲斐があった瞬間であった。
「赤い月」のシリーズとして、納得のいく作品になってさえくれれば、1年でも10年でも待ちたい。
そして、いよいよ「桃子は三度振り返る」の始まりだが、タイトルでも登場する「桃子」が一つ歳を重ねた。
「登場人物も我々とともに歳を取ります」などといったことを述べていたが、最終学歴まで変化したのは驚かされた(ちなみに、元は「美大」)。
これにより、猫の名前の必然性を犠牲にする代わりに、「口笛が上手になったこと」の必然性が増した。
通常のバージョンは出逢いから別れまでの日々をあまり語らず、音楽を中心に描き出していたのが今までの作品である。
笑顔も安らぎもギターのフレーズと演奏のみで表現し、曲調がマイナーになるところで訪れるその瞬間を予感させる。
ここまで完成された曲に、この日はあえて手を加えて中間部を言葉でも描写していた。
この日演奏されたバージョンもいつものものも、それぞれよい点があり、意図もある。
今後も、馴染みのバージョンも聴けるであろうし、また積極的な意図を織り込んでいこうという日もあるように予感される。
いずれにしても、このワンマンでの演奏のピークの一つはこの曲にあった。
最後は、「冷たい指先のワルツ」で第二部も終了する。
直前に、「すっかり切なさがなくなってしまった」ようなことを口にしたが、結局予定通り切なさの含んだこの曲で終えた。
結局、第2部全体を通しても「力を抜く」ことはあまり感じられず、渾身の演奏であったように感じられた。
第3部は、野菜の歌がリストに並ぶ。
昨年であれば、山田庵巳が「皆さん頑張っていきましょう」とありえないMCをした秋葉原ドレスのライブや、YouTubeで名演が観られる柏Wuuのライブで、野菜の3曲シリーズは演奏されている(ちなみに、柏は8/31の「野菜の日」)。
先に「ぱぷりかぁな」が演奏されるが、ギター演奏のクオリティそのものはこの曲は最近ずっと安定して高い。
テラプレーンの雰囲気にも曲調が合っており、それも意識されてかツーマンのときから「ぱぷりかぁな」は必ず演奏されている。
個人的にも、この空間で「ぱぷりかぁな」が聴けるのは楽しみの一つである。
設定としては、初恋の相手「渡辺ぱぷりかぁな」ちゃんについての想いを歌にしたとのことだが、印象としてはもう少し成熟したような像が浮かぶ。
そして、心変わりをテーマとした「ロールキャベツ」、別離を予感させる「スウィートポテト」、追憶が切ない「かぼちゃのスープ」の3曲が連続で演奏される。
代表曲である「かぼちゃのスープ」は別として、残りの2曲はこのメドレーでしか聴いたことがない。
だが、いずれも名曲であり、特に音楽自体は「スウィートポテト」は個人的にも惹かれて止まない魅力を感じる。
せっかくなので、柏Wuuの演奏を貼っておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=-c-a8GIwktk
「かぼちゃのスープ」については、ライブの最後に演奏されても素晴らしい曲である。
この曲がアンコールで演奏されたのを最初に聴いたとき、柔らかな光に包まれ、打ちのめされる感覚を味わったのを、おそらく自分は一生忘れることはない。
今まで、自分でもギターを弾いたり色々なライブに行ったりしていたのは、実は山田庵巳に出逢うための日々だったのではないかとさえ感じた。
長い長いこの歴史年表の中でこの瞬間に生を受け、広大なこの地球儀の中でこの場所に存在することができた喜びと奇跡には、感謝してもし尽くせない想いで溢れた。
曲に話を戻すと、やはり「かぼちゃのスープ」も職人的に丁寧に言葉を紡いだ、美しい調和がある。
それでも技巧に収束するのではなく、心の繊細な描写が聴き手の内面をも揺り動かし、自分自身が追憶を行っているかのような錯覚を覚える。
おそらく、この決して長くない曲も膨大な時間と労力を注ぎ込んでいることであろう。
だが、そのプロセスを示さず、山田庵巳は結晶だけを何事もなく提示するだけである。
ちなみに、山田庵巳は野菜や動物の歌が多いが、これは間接的には人間について表現しているとのことである。
その表現形態こそが、一般的な共演者の直接的な歌詞をつまらなく感じさせてしまうだけの差別化を持たせるのかもしれない。
新宿サクトでの共演者は、ギターは上手いが歌詞についてはJ-POPの延長線上であることが少なくなく(もちろん全てではないが)、声の倍音と歌詞の音素の周波数が楽器の音とともに脳で処理されるだけのことも少なくない。
代官山のイベント(alternative soloist)以来、山田庵巳のMCでも「J-POP」という言葉が用いられる場面がよく観られるが、代々木原シゲルの「最近のJ-POP」が印象深かったためではないかと思う(この歌詞はTwitterでは知っていたが、歌があるのはそれまで知らなかった)。
それはさておき、J-POPとはJ-POPの記号とも呼ぶべき幾つかの単語に置き換えて歌詞世界を積み上げ、聴き手の受容器でそれを強引に自分の経験などに結び付けて追体験しようとする、言わば力技の作業である。
一度最大公約数に情報を減らした上で、聴き手側でその画素やbitレートを補完しなければならない。
どうも、自分にはその受容器が欠如しているらしいことが分かってきたが、詩人や職人の言葉は周波数以外もきちんと入ってくることも分かった。
話を「かぼちゃのスープ」に戻すと、そうした意味でこの曲はJ-POPではない。
画素もbitレートも下げることなく、何も脳内で補完しなくとも映像も心象も浮かび上がってくる。
メドレーのこの日の演奏も素晴らしく、ここでライブが終わっても満足であったが、ここから御馴染みのリクエストタイムが延々と続く。
「長いのと短いのとどちらがよいか」などと、懲りもせずにこの日も客席に問いかける。
たいてい客席からは無茶なリクエストがあり、尋ねた側は余計な苦労を背負うのが常である。
案の定、「ポチ」という声も上がり、「赤い月」が全て演奏されることとなる。
長い曲2曲と、短めの曲2曲がリクエストで採用され、まず「赤い月~マクロファージ2号」から演奏される。
マクロファージ2号はシュレッダーで、人工知能や書類を読み取る機能の付いた画期的なシュレッダーのようである。
演奏が結構難しい曲の割には準備を存分にした日はリクエストがかからず、このような思いがけないときにリクエストがかかり、そうした意味では不運な曲である。
だが、会場の評判もよく、この曲がやっとワンマンで披露されたのは本当によかった。
そこで事件が起こる。
山田庵巳のみならずau携帯のユーザーが多いらしく(ちなみに私はPHSユーザー)、終曲と同時に地震予告の例の音がテラプレーンのあちこちから鳴り響き、直後にそこそこの揺れが地下の店も襲った。
ちょうど店内に地震の専門家の観客もいたらしく、「このくらいなら大丈夫」とのことであったが、しばらく地震の話題が続いた。
そして、この日最後の大曲「右手にたいまつ」が演奏されたが、この日一番の名演であり、観客の拍手喝采も他の曲の比ではなかった。
ワンマンの日は比較的時間にも余裕があるので、無理にテンポを上げずに丁寧に一音一音響かせることが多い。
そのため、ギターの音質もどちらかと言えば粒の揃った美音で奏でられる割合が多い。
だが、「右手にたいまつ」は何かが振り切れるかのように勢いよく演奏され、リミッターも取り払われたかのようにアクセントの楔も打ち込まれる。
この曲は、正真正銘山田庵巳にしか創れないし、歌えない曲である。
例えば、「アイサレー大佐フォーエヴァー」などは日比谷カタン的な影響もあるという声もあり、確かに高みからフィクションを構築しようというところは類推させられるところである。
だが、「右手にたいまつ」はそうではなく、「二の腕」という単語自体が主役として躍動する世界というのは、一般人にはなかなか思いつかないし、それを作品化するという発想すら浮かばない。
どこか創り手の使命感のようなものが突き動かし、このテーマを結晶化させたとしか考えることができない。
ちなみに、「ゆうこちゃんの二の腕もゆうこちゃんなんだ」という視点は、学術的には正しい。
詳細はリンク先のマンガを参照していただきたいが、「ゆうこちゃんの帽子」「ゆうこちゃんのリコーダー」など「生命のない対象物」でない限り、正常な方向性であることは間違いない。
http://yucl.net/man/24.html
歌詞の中で、主人公は光が射したかのようにこの境地に辿り着く。
一見笑いを取るためのコミカルな世界を予想させておいて、収束部で示されるあまりにも感動的な境地には身震いが抑えられない。
「君の体温を知ったときから(※修正済み)」からは確かに光が射し続け、心の向かうところもしっかりと道標が確認できる。
演奏自体も、なぜかこの曲には気迫が感じられて、自分自身が松明(まつあきら)君となり苦しみ、そこから解放される境地に辿り着いたかのような、そんな魂の叫びすら聴く者に感じさせた。
「旭を連れて」の高速のギター演奏を聴かせた後は、少し語りが入った。
震災の後に無力感を感じたことや、生活の中で自分のできることを少しずつ行うことで取り戻していった感覚など、間違いなくフィクションではない生の声が届いた。
リクエストの最後は心を込めた「もしあなたが」であったが、心を込めすぎたか、演奏自体に満足できず「これでは終われない」ともう一曲弾かれた。
「春夏秋冬」の前奏が奏でられ、これを聴きながら自分の心の中で小躍りをした。
この日は、「スウィートポテト」か「春夏秋冬」が聴けると嬉しいと思っていた。
リクエストはもちろんできる場であったが、個人的にはこのような機会は会場にあまり足を運べない観客のところに与えられてほしいとも思っていた。
「スウィートポテト」が聴けた以上(「右手にたいまつ」も名演であったし)、これ以上求めるのも、と思っていたら「春夏秋冬」である。
確か書いたことはなかったと思うが、個人的には一番好きな曲ではないかと思う。
切なさを感じさせる美しい曲は多いが、「春夏秋冬」は切なさ抜きに柔らかな光が当たり続けている。
聴くたび、この世界が美しく感じられ、自分自身も優しい気持ちで日々を送れるような気分になる。
たとえ自分が死んでもこの曲を聴きにライブ会場にいたいと考えるし、このような曲を創り歌い続けてほしいとも思う。
「もしあなたは」は思い通りの演奏ではなかったかもしれないが、「春夏秋冬」を演奏させるための神様のちょっとしたいたずらがあったのかもしれない。
いずれにしても、幸せな気分でこの日のワンマンも終わり、終電の車内の景色も違って見える感覚で帰路に着いた。
なお、このレポで採り上げた柏Wuuのあっくんとのツーマン、代官山のイベント、テラプレーンのツーマンは、どれも素晴らしく、本来しっかりとしたレポを記しておかなければいけないライブであった。
これは自分自身の力不足に他ならないが、いずれ何らかの形で振り返る機会が訪れれば、と思う。
そして、山田庵巳ワンマンが今後も聴ける日々が続くことを願って止まない。