札幌本府・札幌区・札幌市の区域変遷 | さっぽこのウェブログ

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自治体としての札幌市の歴史は開拓使の島義勇判官がこの地に赴任してきた時に始まるといっていいだろう。


1869年(明治2年)、今の北一条西一丁目に官邸を建設した島はこの付近に札幌本府庁舎を築く計画を立て、その用地として三町四方(約330m四方、当初は300間=約550m四方の計画)を定めるとともに付随する市街の建設を進めた。


この札幌本府を中心に開拓する計画は島が更迭されたため間もなく停滞を余儀なくされたが、1871年(明治4年)に赴任した開拓使の岩村通俊判官により再び加速し、この年には北四条東一丁目を基点に一里四方(三十六町四方、約4km四方)を、翌年には北三条西六丁目を基点に一里四方を札幌本府の市街予定範囲と定め開拓を進める。

ただし、明治4年の「西村七ヵ条伺」では札幌本府の範囲を南・豊平川、西・庚午三ノ村境小川迄(直径18丁)、北・本庁より直径30丁、東・札幌本村(元村)としており、一里四方より北側にやや広く報告されていた。

また、岩村判官が西側の村落を円山村と名付け河川が流れる凹地の南北直線を境としたほか、西15丁目あたりまで円山村だったという史料も残っている。




(図1『札幌市史』~ 右寄りの正方形が明治4年、左寄りの正方形が5年の市街予定区域、中央が明治11年頃からの境界)


その後の制度変更、境界確定作業、境界に関する史料について時系列で表す。


◆1871年(明治4年)
戸籍法施行、区を設置し戸長、村落に副戸長を置く。

◆1872年(明治5年)
大区小区制制定、大区に区長、小区に戸長、村落に副戸長を置くが、北海道での開始は遅れる。
区制の開始を前に札幌本府や村落の境界の必要性が議論される。

◆1873年(明治6年)
本府一里四方の測量を行う。

◆1874年(明治7年)
大区小区制を実施し石狩国第1大区に札幌郡6小区を設置。
※この頃、琴似開墾地が偕楽園の北に存在。

◆1875年(明治8年)
※本府と豊平村、上白石、山鼻村との境界は雑然。
※南1以北西9~20の本府市街予定地、円山村に桑畑。

◆1876年(明治9年)
全道で大区小区制が実施される。
本府市街の境界部を測量し仮標杭の設置を計画。
※コトニ川流域の琴似村にアイヌ。(~明治14年頃)

◆1878年(明治11年)
郡区町村制制定、複数の町村を併せ戸長と戸長役場を置くが、北海道での開始は遅れる。
本府市街の境界に仮境杭を設置。
※地図により新たな市街予定区域表される。

◆1879年(明治12年)
郡区町村制により札幌郡、札幌区が発足も、札幌郡は区が管轄し行政は一体化。
各村の境界を測量し確定を進める。(~明治14年)

◆1881年(明治14年)
札幌区市街で条丁制始まる。
※地図で明治11年同様の区域が表される。

◆1882年(明治15年)
三県分立、札幌県令に調所広丈が就任。
※市街予定地の南1~北1西11以西を牧羊場に。

◆1884年(明治17年)
札幌郡外五ヶ郡役場設置、区と郡の行政が分離。
札幌区、札幌郡分離で厳密な境界が必要になる。
※琴似川右岸を札幌区に編入。
※県令の調所が北7以北西17丁目以西の払い下げを受けようとするも円山村に反対され、西21~22以東を札幌区に編入し払い下げを受ける。
※サクシコトニ川を境界にしたとする史料も存在。




(図2『札幌歴史地図 明治編』~ 明治11年の市街図、赤線が境界)


明治4年から5年にかけて岩村判官によって定められた一里四方の本府市街範囲ではあるが、どれだけ厳密に適用されたかはわからない。

南側については明治4年、すでに移住が進んでいた山鼻北部の集落が市街一里四方の範囲に入っていたため西方に移住させられ、再移住した人達が十二軒(のちの宮の森)、二十四軒、八軒集落をそれぞれ作っている。

西側については明治4年を基準にするなら西15丁あたりのコトニ川上流、明治5年を基準にするなら西20丁あたりの旧円山川が境界になるが、メム(湧き泉)を源流とする小河川が流れていたため開発が遅れ、どのように運用されたかハッキリしていない。


北側については史料から判断すると北20条付近から北30条付近までとみられるが、実際は偕楽園(北7条)の北側に琴似開墾地が存在したり、サクシコトニ川上流付近の「琴似」にアイヌ人の住居があったり、実際の札幌本府の範囲は狭かったようである。

東側についてはすでに大友亀太郎の御手作場(札幌村)が存在し用水路(のちの創成川)の付近まで開拓されていたが、札幌村を一部取り込む形で一里四方が設定され境界は判然としていない。



このように一里四方の適用は南側では行われたものの、その他三方では適用前に開拓された村落との兼ね合いや土地の状況により曖昧なまま運用された。



明治5年、戸籍法の区制を発展させる形で大区小区制が制定されると、札幌周辺でも小区(複数の町村で構成)を編成するために札幌本府や各村落の境界を確定させる必要性が高まった。

明治7年、札幌周辺でも石狩国第1大区(郡に相当)に札幌郡6小区で大区小区制が実施され、札幌本府市街に1~3区(大通より北側が1区、大通以南の西側が2区、東側が3区、図3で通りの名が書かれたエリア)、円山村以西に4区、豊平川以東に5区、札幌村から北と東に6区が置かれる。

明治9年には全道で大区小区制が実施される一方、この年から明治11年にかけて札幌本府の市街域の測量が行われ、市街の周囲に仮境杭が設置された。

明治11年の地図(図2)には仮境杭が反映されたのか一里四方より小さい四角の境界が設定されており、市街の発展の遅れと周辺村落との兼ね合いから市街の境界が一里四方より小さくなったとみられる。




(図3『札幌歴史地図 明治編』~ 明治14年の札幌市街概図)




(図4『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に明治4年(橙)、5年(緑)、11年(桃)の境界を記載)


同年、郡区町村編成法が制定され、札幌周辺では翌年になって実施されるとともに、札幌区および札幌郡(札幌区が管轄)が設置された。

郡区町村編成法は大区小区制が地方行政の実態に馴染まなかったため、区制や戸長制度を一部残しつつ特に農村で郡や村落を基本に行政単位を再編成すべく作られた制度である。


明治12~14年には各村落の測量が進められ、村落同士の境界が確定していった。

明治17年になると、札幌区の管轄下で札幌区の一部のように扱われていた札幌郡が周辺の郡とともに札幌郡外五ヶ郡役場を設置し分離する。

大区小区制では大区(区長)の下で市街3区、村落3区に個々の戸長が置かれ、その下に村落を統括する副戸長や総代などが置かれていたが、郡区町村編成法でも区長が市街の町(戸長が統括)のほか本来独自に行政を行うはずの郡部村落(戸長が複数の村落を統括)を管轄し、結果として大区小区制時代と似た組織の構造を持っていた。

その構造により市街と村落の行政が一体化されていたため市街と村落の境界についても曖昧な状態が解消されず、一里四方に近い市街範囲と11年の市街境界のどちらが優先されるのか不明確な状況が続いていたが、17年の札幌区と札幌郡の分離を機にこの曖昧な状況の解決が図られることになる。


17年、琴似村との境界は創成川と琴似川の交点から琴似川を遡る流路が琴似村と札幌区の境界とされた。

一方、1887年(明治20年)には創成川から琴似川にある道路が境界だったという史料、北27条道路が境界だったという史料も残っており、これらは17年に確定した境界と矛盾する。

以後の地図には北27条あたりに境界線が書かれており、その点で地図は後者を支持する根拠になるが、1910年(明治43年)の境界変更で北27条以北は札幌区から琴似村に編入されており、こちらは前者の継続を支持する根拠になる。

『札幌の歴史』一巻の最初でこの境界問題も取り上げられているが、小学校の経営を支えた「学田制度」を農学校の学田と解釈しており、その説を全面的に採用する事はできない。

結論として、北27条以北についての帰属問題は謎が残っている。


円山村と札幌区の境界についても17年頃、西20丁付近が境界であると決定した。

これについては札幌県令の調所が西17丁以西の払い下げを受ける際、円山村の共有地、または札幌区と円山村の間で未確定地とされていたこの付近の払い下げを円山村が拒否したため、調所が強引に札幌区に編入させたというエピソードがある。

この件は複数の史料にみられるが真偽は定かではない。


さて、17年頃の境界確定を踏まえると札幌区の範囲は琴似川の東及び西20丁の東ということになる。

しかし、ある地図では桑園新川から桑園地区に札幌区の境界が設定されており、別の史料ではサクシコトニ川が境界だったとも書かれていた。

また別の地図でも1909年(明治42年)時点で桑園新川付近が札幌区の境界になっており、現在の競馬場にあたる場所が札幌区だったのか琴似村だったのか判然としない。

競馬場が作られたのは1907年(明治40年)で、その住所は北5条西18丁とも琴似村北5条西16丁北方ともいわれる。

当時はすでに北8条まで設定されていたので北5西18説(北5条までしかなかった時代、北側は全て北5条と表記された)はやや弱く、琴似村北5西16北方説(琴似村なので条丁は設定されていなかったか)の方が納得は出来るがこの点についても結論は出せない。




(図5『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に明治17年頃の境界(緑)、琴似村との境界異説(黄)、琴似村・円山村との境界異説(橙)、明治19年に編入した鴨々中島(水)を記載)


1886年(明治19年)、札幌県を含む三県体制に無駄が多いという事で北海道庁(のちの北海道とは異なる)が発足し、長官にかつて判官だった岩村通俊が就任。

同年、鴨々中島(現在の中島公園)を山鼻村から編入。

1887年(明治20年)、琴似村北方に新琴似屯田兵村が作られ、範囲は一部琴似川右岸にも及ぶ。

1889年(明治22年)、新琴似屯田兵村の北隣に篠路屯田兵村が作られる。




(図6『札幌歴史地図 明治編』~ 明治20年頃の屯田兵司令部用地之図)


1898年(明治31年)までに北8~南7、西20~東5に条丁が設置される。

1899年(明治32年)、北海道区制および一二級町村制が制定され、自治体としての札幌区が発足。

札幌区の範囲は西が創成琴似合流点から旧円山川と西20丁道路、東が豊平川から東8丁目道路までとみられる。

1902年(明治35年)、札幌村、苗穂村、雁来村、丘珠村が合併、二級村札幌村が発足。

1903年(明治36年)の地図による境界は北27条通、琴似川、桑園新川、旧円山川。

1906年(明治39年)、琴似村、発寒村、篠路屯田兵村が合併、二級村琴似村発足、円山村、山鼻村が合併、二級村藻岩村が発足。

1907年(明治40年)、琴似川の東に競馬場移転。

1909年(明治42年)の地図では札幌区の範囲が西20丁まで、別の史料でも桑園新川から西20丁までが札幌区の範囲とされている。

1910年(明治43年)、札幌区が札幌村、白石村、豊平町、藻岩村の一部を編入し、札幌区の北27条以北を琴似村が編入。

藻岩村からは山鼻屯田兵村を、札幌村からは大字札幌村、大字苗穂村の一部を編入。




(図7『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に明治43年の編入された区域を記載)


1922年(大正11年)、市制を実施し札幌区は札幌市となる。

1934年(昭和9年)、札幌村の一部が札幌市に編入され市域が拡大。




図8『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に昭和9年の編入された区域(橙)を記載)



1941年(昭和16年)、円山町(旧藻岩村)が札幌市に編入される。




(図9『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に昭和16年の編入された区域(黄)を記載)


1950年(昭和25年)、白石村が札幌市に編入され市域が拡大。

同年、札幌村の一部(北二十六条~北二十八条の東一丁目~東七丁目まで)も編入する。




(図10『札幌歴史地図 昭和編』~ 昭和26年の地図に昭和25年の編入された区域(青)を記載)


1955年(昭和30年)、琴似町、篠路村、札幌村が札幌市に編入。


1961年(昭和36年)、豊平町が札幌市に編入される。


1967年(昭和42年)、手稲町が札幌市に編入され、ほぼ現在の市域が確定。



なお、札幌郡に属する範囲のうち札幌市から独立して自治体を運営しているのは江別市と北広島市の二つである。


江別村は1871年(明治4年)に作られた対雁村と1878年(明治11年)に屯田兵によって作られた江別村が合併したもので、明治7年に始まった大区小区制では対雁村が石狩国第1大区に、明治12年に始まった郡区町村制では対雁村と江別村が札幌郡の範囲に組み込まれていた。

その後、合併を経て二級村江別村となり、市制を開始し江別市となる。

江別が札幌市に編入されなかったのは札幌市から離れていたこと、札幌市街から農業地帯および豊平川を挟んでおり市街の連続性が存在しなかったこと、屯田兵による開拓の基礎があり単独での運営が可能だった事などが考えられる。


広島村は1894年(明治27年)に月寒村から独立したのち、単独での二級村広島村を経て北広島市となった。

北広島が札幌市に編入されなかったのも江別同様札幌市から離れていたこと、札幌市街から農業地帯を挟んでおり市街の連続性が存在しなかったことが考えられる。

近年まで合併の動きはあったが、北広島市として市制を開始したことで合併は立ち消えになり、札幌のベッドタウンとして静かに発展を続けている。



<2020/09/07 追加>

大区小区に関する図の追加、札幌区と円山村の境界について内容の訂正と変更、江別村について内容の追加。


<2020/10/24 追加>

大区小区に関する内容の追加と変更。


<2021/06/27 追加>

大区小区制の説明で「江戸時代の郡や村落を解体する目的から」と郡区町村制の説明で「江戸時代の郡や村落の解体を目指した(大区小区制)」の部分が不正確なので削除。