怒りをコントロールできてこそ、その指導者には魅力がある。
そもそも怒ってる状態で、その怒りを相手にぶつけることほど意味をなさないことはない。
私が尊敬してやまないエドゥさんの通訳をしていた頃、エドゥさんは、「たかまさ、今から怒るからお前もテンション変えて準備してくれ」と怒る前には必ずこの一言をくれた。
それ以降、常に私はチームの状況や選手の表情を「エドゥ監督」として見る訓練が始まった。
褒めるも怒るもあくまでも手段だ。
殆どの指導者が、怒ることや褒めることを目的にしている。
そうじゃないといいながらも、それで満足している。
喜ぶは共感だ。
怒るや褒めるとは全然違うことがわかるだろうか?
褒めるとは依存を生むことがある。
例えば、目の前のゴミを選手が拾ったとしよう。
それは褒められるためではない。
ただ目の前のゴミをそのままにはできなかった彼の中の「大切な何か」が彼を動かしたのだろう。
今から、その彼の中の大切な何かが、他人の中へ移り変わっていく様を見ていただこう。
その選手の前にまたゴミが落ちていた。
彼はそれを何も考えず拾った。
3度目、また彼の目の前にゴミがあった。
彼はそれを拾った。
それをみたコーチがお前偉いな、と褒めた。
4度目も彼は拾った。そして、コーチは褒めた。
5度目も、6度目も目の前のゴミを彼は拾った。
でも、コーチは共に褒めてくれなかった。
彼は、少し寂しかった。
7度目、彼の前にまたゴミが落ちていた。
彼はどうするだろうか。。。
その目の前のゴミを素通りした。
彼の中の「大切な何か」が、コーチの褒め言葉により、コーチから褒められることが大切になってしまった。
褒めてもらえないゴミ拾いは、彼の中で大切ではなくなってしまったのだ。
あなたは、誰のなんのためにサッカーを始めたのですか?
今、あなたは誰のなんのためにサッカーをしているのですか?
指導者よ、あなた方の勝手な感情指導(主観指導)が子どもの「大切な何か」を奪い取っていることに気がついていますか?
怒るも褒めるも芝居であり、演出です。
指導者は指導者を演じるのです。
ありのままのあなたでは、トップコーチにはなれないことを理解するべきだ。
安っぽいプライド捨て、指導者として「必要な服」を着る努力をするべきだ。
「怒ったあとに笑顔になれる」そんな指導者が増えることで、子どもたちの世界観はより豊かになる。
カッコつけてんじゃねぞ!
本気で演じるんだよ!
「自信なんか持ってみろ
ろくなことないぞ!」
※画像はネットよりお借り