「人の目を気にしないで自由に生きたい。」というのは、結構多くの人の願望ではないかと思う。それにもかかわらず、現代の日本では多くの人がその願望に反する生き方をしている。何故だろうか?

 

その理由のヒントとなるオタク文化圏での常套句があった。それは、

 

「リア充爆発しろ!」

 

である。

 

この言葉ができた背景や語源はともかくとして、現在ではこの言葉を発する人間のほとんどが精神的に未熟かつ幼稚で、なおかつ「学校型」の社会の構造から抜け出せていないことが明白である。「学校型」とは、いうなれば「相対評価」である。

つまり「自分は何の仕事もしなくても、誰かの評価が下がれば代わりに自分の評価が上がることもある」という、あの悪しきシステムである。勿論、そんな評価は実社会ではほとんど通用しない。

無論、この言葉自体が思いっきり人の目を気にしないことに反しているので、こういう輩は一生自由には生きられない。

 

質が悪いのは、結構な年齢になってもこの「リア充爆発しろ!」を「ネタ」としてであれば使っていいと思っている愚か者が、「学校型」=相対評価の思考(悲しいかな、これこそが「不快なオタク」の正体である)が抜け切れていない人間の中に見受けられることだ。発信者の自覚を持つべきyoutuberの中にも、そういう人間はかなりいる。このワードが、本当に充実した生を送りたいと願い、日夜自分を磨いている人間には(まぁ、一応気にしないふりはしているが)かなりの不快感をもたらすモノであることも知らずに。

よく考えてほしい。少なくとも「リア充」が(うわべだけであっても)「リア充感」による幸福感を満喫しているとき、彼らが隠し持った、凶暴性は封印されているはずだ。誰もが「リア充感」を自覚しているぐらいのほうが、この世界は平和なはずなのだ。

それに、「リア充」が「リア充」であったり、「似非リア」が「リア充感」を演出するには、一応はポジティブなエネルギーが必要なのである。不快なオタクどもが、何も自分からはしないくせに他人の陰口ばかり叩いて、無為に時間を浪費しているのとは違うのである。こういう連中は、まるで田舎のコンビニにある不快な雑誌(「本当にいた〇〇な女」の類)と同じ種類の、腐った波動を出している。

 

私が躁うつ病にかかったのち、数学界とのつながりは残せたが将棋界とのつながりは残せなかった、というより残さなかったのは、将棋界の民度の低さ=不快なオタの多さが理由なのだが、悲しいことに「リア充に爆発してもらいたい」層は、今ではかなりの層を占める勢力になってしまっているように思える。そりゃ、童貞が多くなって景気が回復しないわけだ。

 

私は外出して「リア充」風の人間を見ると、思わず自分も嬉しくなってしまう。そして、一人であっても定期的にそういう人が多くいるであろうところに行って、その「気」を貰いに行っている。

そのおかげで、今のところ私は「似非リア」より下の「愛のヒエラルキー」には転落しないで済んでいる。

 

もう一度だけ言う。「リア充」が少ない世界、それはただ単に多くの人が「根源的に不幸」な世界である。その弊害は、君たちが考えているような狭い範囲だけでは済まないはずだ。

「人の目を気にしない自由を手に入れる」ことと、「他人の幸福を認め、可能なら祝福する」こととは1セットなのだと心得たい。