11月11日、長い長い開業のお話【ホメオパシーセンター札幌南2条】 | ~自己治癒力で、もっと元気に、幸せに!~ 札幌のホメオパス ふじやまみちこのMagical Healthy blog 

~自己治癒力で、もっと元気に、幸せに!~ 札幌のホメオパス ふじやまみちこのMagical Healthy blog 

心と体のバランスをとり、自分らしく健康になるツールのホメオパシーに惚れ込み、札幌でホメオパスをしています。ホメオパシーをはじめ、クラニオセイクラルセラピー(頭蓋仙骨療法)などの可能性ある代替療法も日々研究&実践中!

すでにプレオープンで走り出してはいましたが……
 
改めましてご報告を。

2017年11月11日、
わたしのツオルキンバースデーである本日、
「ホメオパシーセンター札幌南2条」
を開設いたしました。
 
場所は、
札幌市中央区南2条西7丁目8-2 南2条ビル603号室
 
お祝いのお花、祝福のメッセージ、
ほんとうにありがとうございます!!
とてもうれしく感激です。
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このお部屋は、
2013年からクラニオのセッションで使っている
「自然療法シェアサロン 青い嵐の603」の部屋です。
なじみの場所。
 
当時、自宅外にセッション場所や、セミナー場所がほしいなあと願っていたら、
ほそかわみほちゃん(当時の懐かしいブログはこちら→)が
ここどうですか、ともに借りましょう!と誘ってくれて。
モチのロンですよ、と、
喜び勇んで壁塗りなどし、部屋作りから参画。
以来、たぶんもっとも私が使っており(感謝)、
そのまま拠点とさせていただきました。
 
いろんなつながりと、人の助けで、今があるのだなあと思います。
 
 
 *  *  *  *  *  * 
 
 
わたしはもともとフリーで仕事をしていました。
 
会社勤めのコピーライターから独立して、
フリーのライター&コピーライターになったのが15年前。
個人事業なので、波はあるけれども、
青色申告歴15年。
フリーで生計立てています。
 
その歴が長いので、このたびの開設は
「晴れてひとりで起業!!」というよりも
「長考の末に、次の一手へとものすごく大事な勝負の駒を進めた」
の感じが、自分にはあります。

*  *  *  *  *
 
 
ホメオパシーは、深い森のよう。
 
魅力的なその深みに分け入り、すこしでも秘密を知りたい。
 
宇宙の理へと通じるなにかがきっとあるから。
 
それを感じたい、知って活かしたい。
 
ホメオパシーの学校に入った当初から、
「プロになりたい」とは熱く思って勉強していましたが、
それはいわゆる「起業」「開業」とはちょっと違う質。
 
いってみれば「ライフワーク」として、
ホメオパシーに時間と熱量を捧げたい気持ちでした。
 
その気持ちで、まずはとにかく経験だ、と
6年間、日本ホメオパシー札幌本部で、
ホメオパスとしてたくさんのケースを担当させていただきました。
 
ほんとうに勉強になった。
感謝してもしきれないほど。
 
多くの改善を目の当たりにして
この療法のすばらしさを実感しましたが、
中にはヘビーなケースもあるわけで、
自信を無くし、ふがいなさに泣き、
心折れることもないではなかったです。
 
都度、
自分はこの仕事を心底やりたいか
興味は尽きないか
相変わらず自分の時間と熱量を捧げたいか
それに値するものなのかどうか
 
と自分に問いかけるのですが、
 
答えは、やっぱりいつだって「YES」で、
どうにもこうにも、私はホメオパシーが好きなのです。
 
世間一般に広く受け入れられるとはいいがたいけれど、
これは本物。

まだまだ学びたい。
 
ここまで付き合って飽きない、大好き、興味が尽きないならば
一生添い遂げよう。

そんな気持ちでこのたびのセンター開設へと駒を進めました。
 
まるで私の結婚のようでも、あります。
 
 
*  *  *  *  *  *


今日はさらに話を続けていいでしょうか。長くなります。
 
 
自らの本気を問うといえば……
 
あれはホメオパシー専門学校の最終学年の4年生だったときです。
 
ホメオパシーに対して日本で大々的なバッシングがありました。
 
朝日新聞で連日、事実を極端に編集したネガティブ記事が掲載され、
日本学術会議が「ホメオパシーは荒唐無稽」と声明を出しました。
 
私は、両親にホメオパシーを勉強していることは伝えており、
それまでとくになんの反対も賛成もなく
(子どものやることに口を出さない方針で一貫している親なのです)
自由にやっていたのですが、
 
朝日新聞の報道を見て、
さすがに母は黙っていられなくなったのでしょう。
電話が来ました。
 
「あんたがやっているホメオパシーとかなんとかいうの、
あれはなんなの!?
まったく科学的じゃないのに……
宗教みたいなものでしょう!!
どういうわけでハマったのか!
馬鹿なことするんじゃない!!!
あんたは子育て中でしょう!?
余計なことしないで、黙って子育てしていればいいの!!!!」

とそれは激しい調子でした。
 
わたしは全身が、怒りと悲しみで震えました。
比喩ではなく、文字通り、わなわなと震えたんです。
 
あまりに強いショックを受けると人はそうなるんですね。初めて知りました。
 
 
わいてきた感情はこうです。
 
「お母さんは私のやることなんて信じていない」
「いつもダメだと思っている」
「私を守ってはくれないんだ」
「賛成してくれないんだ」
「味方じゃないんだ」
 
(「黙って子育てしていれば」
のフレーズにもものすごくカチンときましたが、
それよりもぶわっと奥深くから出てきたのは上記です)
 
 
 *  *  *  *  *  *  *


話は続きます。まだまだ長いですよ、すみません。
なんなら何日かに分けて読んでください――――
 
 
「守ってくれないんだ」
の思いと同時に、
わたしは取り乱し、震えながら、
泣き、叫びました。
 
「お母さんは結局いつもそうだーーーーー」と。
 
結局いつも。いつも。いつも
 
ほんとうに支えてほしい大事なときには、いつも!!!!と。
 
 
その思いは小学生時代にさかのぼります。
 
 
小学1,2年生のころ、わたしはいじめにあいました。
 
ボス格の女子が、順繰りにだれかを無視するようにとみんなに命じるわけです。
ターゲットに、私は多くなりました。
 
今思えば、わたしもどうも生意気というか、
変に頭は回るし、言葉が達者だし、
しょせん小学校なのですが勉強系統が妙にできちゃったし、
ハナにつくところがあったんでしょう。
 
なにより、ちょっと「異質ななにか」がわたしにあったんだと思います。
(自覚もあります)
 
しかし、小学1年、2年。
まだ10歳にもならない小さい子どもです。
友達みんながいくら話しかけても答えない、
だれも言葉をかけてくれない。
そんな状況は、とてもつらかった。
死にたいとさえも思ったはずだけれど、
なぜか学校を休む発想はなく、
苦しみながら登校し、暗黒地獄の低学年時代をやりすごしました。
 
その経験から、
わたしはほとほと女子グループや、
徒党を組んでだれかを阻害するような
人間の根性に(だれにでもあると思います、もちろんわたしにも)
嫌気がさして、
「そういう人間になりませんように」
「よく生きられますように」
「今日はこんなことを思ったのはよくなかった、明日はもっとこうできますように」と、
当時遊びに行った教会で覚えたやりかたで、
アーメンをしながら毎日毎日、寝る前にお祈りするようになりました。
 
にっくきボスは転校し、平和が訪れた3年生からのことです。
 
今思い返すと、あいつはもういないのに、
なんであそこまで?と思いますが、とにかく
純粋で必死でした。
毎晩祈りました。
 
その全力の祈りは、
人というものに対してのわたしの考え方や関わり方をたしかに変えて、
言葉では言えないなにかもおそらくは会得して、
以後、人間関係で悩むこと、ほとんどなくなりました。

あのとき一回死んで、生き返ったような気がする。
大げさかもしれませんが。
 
だから小学3年生以後は
学校生活全般に悩みがなく、毎日とっても楽しくて
そこそこ目立つイキイキした子どもだったろうと思います。
 
楽しさのまま、6年生になりました。
 
そして、もうすぐ卒業というとき。
 
母と二人でデパートに買物に行く途中、
歩きながら、思い出話のついでに母がこう言いました。
 
「あんた、低学年のころは仲間外れにされたよね。
あのときはずいぶん、いやだいやだって毎日泣いててねえ、
お母さんもどうしたもんかと思ったよ。
でも、だいたい、あんたも悪いんだよね。
なんでも理屈を立てて、ハッキリ言うようなところがあるし。
そういうところお父さんに似てる。
あんたも悪い。
気をつけなさい。
 
……え………?
 
ふいにそんなこと言われて、
膝から力が抜けて、体が支えられなくなるようなショックを受けました。

つぶれそうに毎日つらい思いをしていたあのころ、
あのときもお母さんはわたしが悪いと思っていたの!?
というショック。
 
徒党を組んでいじめるのはどう考えても悪いはずなのに、
「一般受けするようにふるまえないお前の特殊性が悪い」と
最愛の母に断じられたショック。
 
お父さんに似てるから気をつけなさいって、
自分に流れる血を否定されたようなショック。
 
この数年間、祈りとそれによる内面の変化でサバイブして、
人生が幸せな方向に向かった手ごたえがあるのに、
なんで今、そんなことを!?というショック。
 
「お母さんってわたしの味方じゃないんだ」
と思いました。
 
いつでもよそ様や皆様のほうが正しくて、わたしは間違っている。
そうなんだ。
 
やるせなく悲しく、途方に暮れました。
ぽつんと放り出されて迷子になったみたい。
 
 
そう。
そのときの悲しみがフラッシュバックしたのです。
 
 
うわーーーー!!!と自分でもびっくりするぐらい
悲痛な大声で電話口で叫んだのは、
当時の光景と思いが重なってのことだったんでしょう。
 
 
*  *  *  *  *  *  
 
 
電話の一件後、母とは1年間ぐらいはまともに会話する気が生まれず、
ぎくしゃくと時が過ぎました。
 
ただ、わたしは
母の態度にショックを受けたのをあの場でそのまま表現し、
思いのたけをぶつけることができたので、
自分ではどこかすっきり、
吹っ切れた気分もありました。
 
長年のわだかまりを、ぶっとばしたような気すら……。
 
これぞホメオパシーの学び、
インナーチャイルドについての学びが生きた場面です。
 
 
わたしが思いっきり泣きわめき叫んだせいか、
以後、母はホメオパシーについて意見することは一切なくなりました。
(薬剤師の父が「何も言うな」と言ったと、後で聞きましたが)
 
とにかく、母なりに感じるものがあったのだろうと思います。
 
すっかり手放してくれ、
わたしのしていることに何にも言わず、
そのうち、なんとはなしに交流は復活し、
 
今は愛情深く、孫たちにもたっぷり愛を注いでくれて、
仲良くしています。
 
 
あの電話事件はなんだったんでしょう。
 
ひとつのイニシエーションだったように思います。
 
母の庇護がどうだというんだ、
認められたいってなんなんだ。
そうではなくて一人の大人として
自分がやろうと決めたなら、
天地に恥じないと思えるならば、
母がなにを言おうと踏み倒してでも
おのれの道を行けばいいだけだ。
甘えるな!
人がなんだ、世間がなんだ、母がなんだ!
自分で自分を信じろ!
自分で自分を認めろ!
行け!!
 
そんな「自立」へのイニシエーションを
母は、私にセッティングしてくれたんじゃないかな。と。
 
もちろん無意識にでしょうが。
 
子を一歩進ませるための要所要所で、
さあ振り返らないで行きなさい、とばかりに
自分をことさらに冷たい人にして、
背中を押すようなところがある母だし……。
 
 
バッシング、卒業間近、母の電話。
 
畳みかけるように本気を問われ、おかげで観念しつつ、わたしは覚悟を決めました。
 
 
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すごい愛だよね、お母さん。
 
と恥ずかしながら今ごろになって、その愛の形と、ありがたさがわかってきています。
 
*  *  *  *  *  *
 
個人センター開設にあたって、
なんだか今、これを書いておきたくて、書きました。
 
ちなみに、
「薬剤師にはなるな。自分の好きなことをしなさい。」
と子どもたちに言い続け、
私のやることに決して何も言わない姿勢を貫いてくれている
薬剤師の父は、
偶然にもハーネマンと同じ誕生日。

だからといって別にホメオパシーに関心はないようですが(笑)、
 
おかげで、わたしは好きなことをしています。
 
これからも、しつづけます。

ありがとう。


(↑これは昨日、夫氏がわたしに買ってきてくれたワイン)

いろんな形で、

両親、家族、友人、かかわる人たち、宇宙は、
わたしに愛を注いでくれいるのだと、すこしずつわかってきました。

その愛に感謝しつつ。
 
進みます。

以上11月11日、センター開設によせての長い長い表明でした。

今後とも私の歩みを見守っていただけたら幸いです!