4月16日

【ケンシ】

ホテル・マポーラの不機嫌満開のおばちゃん

 

 僕らが歩いたのはたった13日間だけれど、振り返ると本当にさまざまな出来事が凝縮された、濃密な時間だった。

田園風景、吹雪の中の冷たい峠越え、道がわからなくなった心細さ、疲れ切った身体で風呂に浸かる幸せ、生ハムサンドウィッチの美味さ、そして出会った旅の友人たち――。

体験した出来事が膨大なイメージとなって、心の中にあふれていた。だが、思い出の整理をしている場合ではない。僕らの旅は、もう少し先まで続いていた。

 

 大聖堂に辿り着いたその日、僕らは泊まるところがなかった。到着が遅れた場合のことを考えて、この日のホテルを予約しないでおいたのだ。そこであちこち調べてマポーラというホテルを見つけ、ケイコとふたりで訪ねていった。

マポーラは5階建てくらいのビルで、3階にレセプションがある。中に入れてもらおうと玄関ベルをブッブーと鳴らすと、スペイン人のおばちゃんがもの凄いダミ声で「誰!」と怒鳴ってきた。ちょうど猛獣が威嚇するときのあの声と、同じ感じだ。

恐る恐る「今晩、泊まれる部屋を探してるんだけど」と伝えると、「ない!」とさらに怒鳴られた。相当、機嫌が悪そうだ。でも、なんとかベッドを確保しなくてはならない。「僕らふたり、ひと晩だけ泊めてもらえないかな」、そう粘ると一瞬の沈黙の後、「上がりな!」とお許しをもらえ、玄関ドアのロックがガチャンと解除された。

 エレベーターで3階に上がったが、そこには誰もいない。すると上階からドタン、ドタン、ドタンと、もの凄い音が近づいてくる。間違いなくあの声の主だ。

おばちゃんの姿が見えたので、僕らはなるべくほがらかな調子で「こんにちは」と挨拶したが、もちろん返事はない。おばちゃんは眉を寄せ凄味のきいた表情で、手にぶら下げた鍵をジャラジャラさせながら部屋のドアを開けると、「ここの部屋!」と吠え、僕らに中を見せた。

清潔な部屋にはツインのベッドが置かれ、小さいけれどバスルームにはバスタブがついていた。充分、居心地がよさそうだ。僕らはこの部屋を使わせてもらうことにした。そして「お金はいつ払うの?」と尋ねると、おばちゃんは「今じゃなくていい!」と雷のように怒鳴り、再び上階へドタン、ドタン、と引き上げていった。

彼女はどうしてあんなに機嫌が悪いのだろう? きっと昼寝をしているところを起こしてしまったんだろう、と推測した。

ちなみにこのホテルはとても快適ないいホテルだった。朝食は充実したバイキングで、パンに卵料理にハムやソーセージ、新鮮なサラダ、フルーツやヨーグルトもあって大満足だった。問題のレセプションも、夕方以降になると可愛らしい女性が来て担当していたので、利用する人は頃合いを見計らって訪ねるといい。

 

宿が決まった僕らはこの後、前日に送ったケイコのリュックを引き取りに、街の巡礼者用施設「ホテル・オルテス」に出かけた。到着日は普通のホテルに泊まりたいと考えていたけれど、荷物は巡礼者用の宿泊施設にしか送れないので、荷物だけそこに送って預かってもらっていたのだ。

そこで「ホテル・オルテス」を探しに出たが、これが見つからない。地元の人に尋ねても、「ああ、そこの角を右に曲がったところだね」と言われて行くと、ない。別の人に「新しい宿だよね。ここを真っ直ぐ行って左折して次の角あたりだよ」と言われて行くと、またない。こんなことを繰り返して、どれだけ歩いたことか。

途方に暮れていたとき、運送会社のバンの後部ドアを開けて荷物を下ろしているおじさんをつかまえた。そのおじさんが「ああ、そこの角を……」と説明し始めたので、僕らは「本当に悪いんだけれど、連れていってくれないかな」と頼み、彼に案内してもらった。

そこからオルテスまでは「すぐそこ!」と言っていたにもかかわらず結構距離があった。それでもおじさんは嫌な顔ひとつせず親切に僕らをガイドしてくれた。それどころか彼は、僕らが荷物をピックアップしに行くと知ると、ホテルの中までついてきて、ケイコの荷物があることを確認するまで一緒にいてくれた。

 彼に会うまで、さんざん地元のスペン人にいい加減な道案内をされたけれど、最後に彼のような親切な人に出会い本当に助かった。

 

この後、ホテルに荷物を置いてから街を散歩した。メルカート(市場)でワインを買ったり、ホタテ貝のピアスを探したり。教会のそばでは、バグパイプの演奏をしていた。そして街中では、若者たちがギターを奏で、哀愁漂う歌を唄っていた。それは正にケルトの音楽だった。海に隔てられているとはいえ、文化は互いに影響し合っているというヨーロッパの距離の近さを実感した。

この日の夕食は、レストランでアンコウの揚げ物とクロケット、それとパンにオリーブオイル。ヒマラヤ産のピンク色の岩塩が添えられていた。

「着いたね」「よく頑張ったね」「予定していたとおりに着いたのは不思議」などと言い合い、白ワインで乾杯をした。楽しい思い出をたくさん抱え、無事に到着できて心からほっとした。これから2週間は、スペイン観光旅行だ。のびのびと開放的な気分だった。

到着の喜びはジワジワと

                                  到着の喜びはジワジワと