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ボリビアの歴史 ウィキペディア
近現代
1959年に達成されたキューバ革命
が、プラヤ・ヒロン侵攻
事件によって社会主義
化し、ラテンアメリカ全土の知識人や社会主義勢力の急進化を招く中、東西冷戦
の最中にあったアメリカはボリビアの共産主義化をおさえるため、「進歩のための同盟
」を通じて集中的な援助を行ったが、こうした行動は貧民層の援助慣れの体質を強める結果となってしまった。1964年
、パスが三度目の大統領に就任すると民族革命運動党は分裂し、パスは自らが再建した軍のクーデターにより政権を追われてしまう。ボリビア政権は軍の支配下に入り、長期にわたり軍の右派と左派にわかれて抗争を続けた。
軍事政権の首班レネ・バリエントス・オルトゥーニョ
は反政府勢力や社会主義者への締め付けを強化した。ボリビアはラテンアメリカ
全体の社会主義革命を目論むキューバ
にとって「最も弱い環」とみなされたため、1966年
11月4日
、フィデル・カストロ
と決別したキューバの革命家チェ・ゲバラ
が南米大陸革命運動の拠点を求めてボリビアへやってきた[34]
。しかしゲバラ率いる革命軍は農民層の支持は得られず、鉱山労働者との連携にも失敗したために、1967年
、アメリカ軍
の支援を受けたボリビア政府軍に捕らえられ、射殺された。農民のゲリラ
戦によるラテンアメリカの武力革命を理論化したゲバラの戦死により、南米の革命運動における武装闘争路線は重大な挫折を来すこととなった。
1969年
4月にバリエントスはヘリコプター事故で死亡し、後任のアルフレド・オバンド
は、隣国のペルーのベラスコ
軍部革命政権に倣ってガルフ石油
を国有化し、労組を合法化した。後継のフアン・ホセ・トーレス
はさらに左傾化し、ソ連の資金援助を鉱山公社へ注ぎ込み、労組や農民組合を纏め上げた左翼革命運動党
(MIR)を誕生させるなど反米化の動きが強まった。しかし1971年
、ブラジルの支援を受けた保守派のウーゴ・バンセル
がクーデターによって政権を握ると、外国投資を積極的に誘致する展開した。この政策は一時的な経済ブームを呼び起こしたが膨大な財政赤字と累積債務を作り出し、後の構造的不均衡の要因となった[35]
。
1978年
にアメリカジミー・カーター
大統領の主導によりボリビアでの民主化が始まった[35]
。結果的に民政移管が完了したのは1982年
であったが、その間に5回のクーデターと9回の政変が発生し、ボリビア国内は混乱をきわめた。こうした社会情勢の悪化は国土の疲弊と孤立化をもたらし、民主化には成功したものの債務危機に襲われ経済が破綻するという事態に陥ってしまう結果となった。
経済の破綻はハイパー・インフレ
を呼び起こし、1984年8月から1985年8月の1年間で実に26,000%の価格上昇があった。与党が分裂し統治能力を失った当時の大統領エルナン・シレス・スアソ
はその座を辞し、74歳のビクトル・パス・エステンソロ
が政権を握ることとなった。パスは1985年
8月、国家の抜本的な再建を目指すための大統領令第21060号新経済政策(NPE)を発表し、価格・為替・貿易の自由化、国営公社の合理化、緊縮財政といった経済の安定化と市場改革に着手した。この改革は失業者が続出する痛手を伴うものとなったが、パスは軍を動員して暴動を抑え込み、強権を発動して断行した[36]
。
独立以来、この経済改革までに188回を数えたクーデターに見られるように、著しく不安定な情勢が続いたボリビアは、その暗く長いトンネルを少しずつではあるが脱しつつある[37