和へ504 アンパンマンとばいきんまん。
アンパンマンって読んだことないけど、トムとジェリーみたいに戦っているのでしょうか?
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特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/1 「敵」とも共生していく 漫画家・やなせたかしさん
毎日新聞 2015年08月10日 東京夕刊
◇戦争を避ける知恵 漫画家・やなせたかしさん(2013年死去、享年94)
「安保国会」の夏である。永田町では老若男女が集い、この国のかたちを変える安全保障関連法案に「NO」をぶつける光景が日常になった。そのざわめきが響く衆院議員会館で、民主党の大西健介さん(44)が大切にしている1冊の本を開いた。あの心優しきヒーロー、アンパンマンを生んだやなせたかしさんのメッセージを集めた「明日をひらく言葉」(2012年)だ。
3年前、新幹線のホームの売店でふと手にとった。09年衆院選で初当選。理想に燃えていたのに、党内の年功序列の壁に阻まれ思うような仕事ができず「何のために政治家になったのか」と自問した時期だった。
<人間が一番うれしいことはなんだろう? 長い間、ぼくは考えてきました。そして結局、人が一番うれしいのは、人をよろこばせることだということがわかりました。実に単純なことです>
「この一節に救われました。地味でもいい。大西が動いてくれて助かった、という人が一人でもいれば政治家としての意味があるんだ、と」。事務所のテレビは、参議院で安保法案の必要性を訴える安倍晋三首相を映し出す。本と出会ってもう一つ気づいたことがある。「やなせさんは本の中で、戦争について<絶対にしてはいけない。戦争は一種の狂気であり、人をおかしくする>と書いています。今もお元気なら『少しでも戦争に道を開くようなことはしてはならん』と諭すのではないでしょうか」
東京で広告デザインをしていたやなせさんが陸軍に徴兵されたのは21歳の時だった。1943年に中国に送られ、戦場で耐え難い飢餓を味わった。海軍の特殊潜航艇乗組員に志願した2歳下の弟、千尋さんは44年12月、任地に向かう途中、輸送船が撃沈されて戦死した。自分の顔を与えて飢えた人を救うアンパンマンなどの作品には、戦争体験が流れている--。そう解説されることが多い。
ところが「普段は戦争の話、ほとんどしなかったんです」と打ち明けるのは、92年から秘書役として最も近くでやなせさんと接した越尾正子さん(67)。なぜなのだろう。40年来、仕事を共にした出版社「フレーベル館」の天野誠さん(62)は推し量る。「人を喜ばせるのが一番幸せ、という人だったから、つらい話をしてもみんな楽しくないだろう、との考えでしょう」
「沈黙」を破るのは最晩年だ。自伝などで従軍体験を簡潔に記していたが、亡くなる直前の13年4~6月のインタビューをまとめた「ぼくは戦争は大きらい」(13年)で克明につづる。その理由を記していた。
<なぜ戦争の話をするようになったのか、というと、同年代にはもう戦争体験を語れる人がほとんどいなくなったことがあります。戦争を語る人がいなくなることで、日本が戦争をしたという記憶が、だんだん忘れ去られようとしています。人間は、過去を忘れてしまうと同じ失敗を繰り返す生き物です>
越尾さんは、やなせさんの一言が胸に残っている。「人間も動物だ。争いたくなることもあるだろう。でも人間だからこそ、知恵で戦争を避ける工夫をしなければ」
知恵とは何だろう。アンパンマンはいつも悪役・ばいきんまんと戦っている。でも決してたたきのめしたりはしない。ばいきんまんも「ばいばいきーん」と言い残して去っていくだけ。「敵」とも共に生きていく。
「先生は『僕の作品には毒は入れない』と言っていました。過激な物語ではなく、静かで、分かりやすく、楽しい物語を人々に贈りました。争わず、平和でいるためにはみんながそんな物語に触れねば、と考えていたようです」(越尾さん)
そのやなせさんが珍しく戦争映画を見た。人間魚雷「回天」を描いた「出口のない海」(06年)。「それまで回天がどんな兵器か知らなかったようです。知りたくもなかったのでしょう。でも一度出撃したら二度と帰れない構造の兵器に若者を乗せる、という発想の残酷さにショックを受けたようで……。弟もあれに近いものに乗っていたのか、と」
それでも人を喜ばせることはやめなかった。07年から亡くなるまで、やなせさんが「責任編集」として参加した季刊誌「詩とファンタジー」を発行する星槎(せいさ)大教授、伊藤玄二郎さん(70)の回想。
「掲載したイラストから優秀作を選ぶんですが、もうかる雑誌じゃないから賞金も出せない。するとやなせさんは『俺が出すよ』と言ってくれ、年1回、東京のホテルのパーティーに受賞者を招き、賞金も記念品も出してくれました。本人は山車に乗って登場してね。今会えたとしたら、あの時と同じように『人はほめられることが、次の夢につながるんだよ』と語るでしょうね」
天野さんによると、東日本大震災直後、匿名で多額の寄付をしようとした。でも「お金はすぐなくなる。もっと未来への夢や希望につながる支援を」と思い直し、イラストを描いた絵はがきやアンパンマンのポスターを被災地に贈り続けた。
亡くなる数カ月前、アンパンマンの映画の完成試写会で、やなせさんが口にした。「まだまだこれからが面白いのにな……」。聞いていた天野さん、「先生、やりたいことだらけなんだな」と思った。なのに普段から「俺はもう死ぬ」と繰り返していたのは有名な話。真意を越尾さんにだけ明かしていた。
「『もう死ぬ、と謙虚な姿勢を見せていれば、死に神も俺にもう少し時間をくれるだろう』と言っていました。生きて作品を作って人を喜ばせ、平和の種をまきたい。だから生きることにこだわっていたんです」
亡くなる1週間前ほどから、病室で唱えるようになった。「神様仏様ありがとうありがとう、お父さんお母さんありがとうありがとう、暢ちゃん、千尋ありがとうありがとう……」。亡くなるその日。「みなさんありがとうありがとう」が加わった。
やなせさんは妻の暢さん(93年死去)と出身地、高知県香美市の田園で眠る。亡くなる直前、この国の行方を控えめな物言いで案じていた。<このところ、世の中全体が嫌なものはみんなやっつけてしまおう、というおかしな風潮になっているような気がしてなりません。国同士も同じことです>(「ぼくは戦争は大きらい」より)
墓石の両脇には、敵同士のはずのアンパンマンとばいきんまんの像が仲良く並ぶ。生前のやなせさんのデザインである。【吉井理記】
◇
戦後70年の夏。「会いたい人」がいる。あの人が生きていたら、この国が直面する課題に何を語るのだろう。=つづく
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■人物略歴
◇やなせ・たかし
本名・柳瀬嵩。1919年生まれ。高知県出身。東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)卒。終戦後は三越宣伝部などを経て54年「ビールの王様」で漫画家デビュー。代表作にアンパンマンシリーズや絵本「やさしいライオン」「チリンのすず」など。「手のひらを太陽に」「アンパンマンのマーチ」も作詞した。