和へ435 ヨブ記(約百記)考え中。 | 宮崎光子のブログ

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和へ435 ヨブ記(約百記)考え中。

ちょっと今、世の中どう考えてよいのか悩んでいます。

拘置所から悩ましいお手紙が来ました。

刑務所からも来ます。

とても素敵なお手紙も来ます。

昨日はミータンから暑中お見舞いのハガキが来ました。




ミータンは裁判所で見た時は、しょんぼりしていたのに、字や絵は元気で、勢いがあります。それでなんだか嬉しくなります。

みなさん、お手紙やおハガキあり が どう ございます。

今日は、防衛相でドローンを見失ったとかありえないニュースがあっていました。防衛の基本は情報、防衛相の敷地内で飛ばしていたドローンを見失うなどあり得ないでしょう。

ニュース見てると、なんだかよく分からないのよくあります。

私は表現の自由について考えていたことあるけど、今のニュースって十分表現の自由を駆使して報道されているんですね。

お手紙の表現の自由は難しいです。

それで、ヨブ記(約百記)を読んだら、新たな生きる指針が生まれるかと思って考え中です。お返事は復活してから書こうと思っています。

http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job01.htm

数々の名言で知られるイギリスの思想家トーマス・カーライルは、『ヨブ記』を評してこのように言っています。

 「高貴なる一書、万人の書! それは決して終わることのない問題―すなわち人間の運命、および神がこの地上にある人間にどう対処されるかという問題についての最初にして最古の表明である。・・・わたしは思う。聖書の中で、あるいは聖書の外で、これに比肩できる文学的価値の作品は皆無である、と。」

 カーライルのいうように、確かに『ヨブ記』は、決して終わることのない人生の難問を主題にしていると言えます。『ヨブ記』は、この難問に真正面から取り組みながら生きる勇気と希望を、そして慰めを、私たちに与えてくれる書なのです。


何せ頭が悪いので、旧約聖書のお話は1度読んだだけではよくわかりません。それで何度か読もうと思っていますが、とりあえず1度読んだところの感想です。解説書の『旧約聖書略解』監修木田献一 新共同訳も少し読みました。


ヨブ記は主人公ヨブさんのお話。この名はギリシア語訳は「敵」(複数形)


ヨブさんは東の国の一番の富豪で無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。

(あれっ、畏れって普通恐れって書くのに、と思ったら、畏れって神をも畏れぬ仕業とか使うらしい。

そこで検索してみると

http://blog.shunpunokai.com/?p=248

 公権力の神をも畏れぬ仕業に憤る

山口組の組長も、銀行口座を閉鎖されるなど、警察権力によって、生活手段を奪われ、島田紳助という有能なタレントも、暴力団員と付き合いがあったという理由だけで、芸能界から抹殺されました。
 かれらは、法を犯してもいないのに、権力から一方的に制裁をうけ、法の庇護も、法による抵抗手段もあたえられていないのです。
 常識的にみても、暴排条例は、筋道が立っていません。
 暴力団を排除するなら、その前に、非合法化するか、解散命令をださなければなりません。
 ところが、暴力団と命名された任侠団体などは、合法組織として、放置されています。
 存在をみとめながら、排除するのは、支離滅裂(←私もこれ変だと思っていたのですが、今となっては表現の自由でしょうか?)

というほかなく、合法組織と接触した一般国民に制裁をくわえるというに至っては、法治国家の根本が疑われます。
 警察が、暴排条例をすすめている理由は、日本中の企業に暴力団対策室を設けさせ、そこへ、天下りの椅子を用意させるためといわれます。
 権力が、治安の維持や国民の安全のためではなく、私利私欲のためにもちいられているのです。

主はサタンに言われた。

「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」

そして、ヨブさんの子供たちは亡くなり、財産もなくなりました。

そしてヨブさんは重い皮膚病になりました。

彼の奥さんは、

「どこまでも無垢でいるのですか?神を呪って死ぬ方がましでしょう」と言いました。

ヨブさんは

「お前まで愚かなことを言うのか。

私たちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうてはないか。」

でもヨブさんは激しい苦痛がありました。

そしてヨブさんは嘆きます。

嘆きは飛ばしまして、最後は主はヨブさんの財産は2倍にして、亡くなった子供の数だけ新たな子供をもうけ、そののちヨブさんは140年生きて長寿で老いて亡くなったそうです。

詳しくは、もう一度熟読玩味して書きます。