・・・1925年
(大正14)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生。
この頃、吉原遊郭
から脱出した花魁
の森光子
が宮崎家に駆け込んで助けを求めている。当初は戸惑った燁子と龍介だが、労働総同盟
の協力を得て、光子の自由廃業
を手助けした。その後も娼婦の救済活動は続けられ、1928年
(昭和
3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。苦界にあった女性達に白蓮は憧れの存在であった。この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが、燁子にはかつて伊藤家でおゆうや舟子ら同性を犠牲にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られる。
小康を得た龍介は1928年
(昭和3年)11月の第一回普通選挙
に立候補するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。燁子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えた。宮崎家を頼る労働運動関係者や中国人留学生、吉原から脱出した娼妓らを食客
として世話をした。生活が苦しい京都出身の華族の子弟を、学習院
へ通わせるために家に住まわせ、その中には北小路家に残してきた初子・功光
もいた。出奔事件以降『心の花』への投稿を断っていたが、1934年
(昭和9年)に自らの歌の場として歌誌『ことたま』を刊行した。
戦争と晩年[編集
]
1957年(昭和32年)にいちき串木野市婦人会の招請による講演会の後、長崎鼻の絶景に魅せられ残した歌の記念碑。
「右も海 左も海の 色蒼く 沖の小島に 想ひは ふかし」[4]
1937年
(昭和12年)7月、盧溝橋事件
で緊迫する中国
との和平工作の特使として、龍介が近衛文麿
首相の依頼で上海
へ派遣されるが失敗、神戸
で拘束されて東京へ送還される。燁子ら一家は家宅捜索を避け、蓼科の別荘に避難した。1944年
(昭和19年)12月1日、早稲田大学
政経学部在学中の長男・香織が学徒出陣
し、翌1945年
(昭和20年)8月11日
、所属していた陸軍・鹿児島県
串木野市
の基地が爆撃を受けて戦死した。享年23。終戦のわずか4日前であった。香織戦死の知らせを信じず、公報の知らせを捨てた燁子は涙も出ず、ただただ呆然とした。夜になって一人、庭で慟哭した。白髪が一気に増えたといい[5]
、これは心労もあったと考えられるが、白髪を嫌がった息子のために染めていたのを、戦死以降やめたと本人が説明していたとの証言もあり、真相は定かではない[6]
。