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佐枝(耕筰の母でクリスチャン)が読むように紙をはさんでいた所
「約百記」
約百と書いてヨブと仮名がふってあるのも見慣れぬ言葉だった。
「約百記」の語につづいて、すぐに、「第一章」とある。
耕筰は何章まであるのかと、先ず頁を繰って見た。すると四十二章まである。頁数にして、三十八頁であった。
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「ほんとうだよ、福ちゃん。福ちゃんが、ほかの人の幸せの道をつけるんだと、そう思うといいよ。第一、誰よりも兄貴が幸せになるんだからね」
「もったいないわ・・・・・・わたし」
福子はそう言い、
「でもねえ、やっぱり・・・・・・ねえ。耕ちゃん、借金があるって、ほんとうにつらいことなのよ。そのつらさを、わたしは誰よりよく知ってるわ」
拓一が頭をもたげて言った。
「福ちゃん、ぼくは男だからね。借金をつらがりはしない。いいか福ちゃん、借金も財産のうちっていう言葉もある。福さゃんはね、たくさんの財産を持って、嫁に行くんだと、胸を張って、威張ってくればいい。福ちゃんの借金は、ほんとうに福ちゃんの親孝行のしるしのようなものだからね」
福子はこらえ切れずに、拓一の布団の上に顔を伏せて泣いた。
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「正しいものがなぜ苦難に会うのか、悪い奴がなぜ栄えているのか」
とヨブが絶叫する。その論争がぼう大な言葉を駆使してくり返される。
近頃耕筰は、なぜヨブ記が難解であったか、ようやく気づきはじめていた。理由はいろいろあるが、何よりも自分自身の中に、ヨブの友人たちと同じく、善因善果、悪因悪果の考えが根強くあったからだと耕筰は思う。
「因果応報は人間の理想だよな、兄ちゃん」
昨夜も耕筰は拓一にそう言ったのだった。
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「神は愛なり?」
修平は驚いたように言った。
「ええ」
「じゃ、どうして災難を下すんだ、嫂さん」
「修平さん、わたしには上手に説明できませんけどね。今、拓一が言ったように、人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。
ですからね、苦難に会った時に、それを災難と思って嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」
「しかし、正しい者に災いがあるのは、どうしてもわかんねえなあ」
修平が呻くように言った。と、拓一が言った。
「叔父さん、わかってもわかんなくてもさ、母さんの言うように、試練だと受け止めて立ち上がった時にね、苦難の意味がわかるんじゃないだろうか。俺はそんな気がするよ」
明るい声だった。耕筰も深くうなずいた。
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そして四日経った日、激しい風が吹いたが、稲は土から浮き上がることはなかった。
その時、拓一は畦道に屈みこんで、肩をふるわせて泣いていた。耕筰はその傍に立っていて、叫び出したい思いだった。
七月、ひ弱ながら稲は伸びた。が、田草を取るのは大変なことだった。四つん這いになって、一日中田んぼの中を這いずりまわる。そんな拓一のために、佐枝は、蓬や塩を入れて風呂を沸かした。それでも、一日中不自由な足で田んぼを這いずりまわった腰の痛みは、翌日まで残った。田草取のあとは、稗ぬきがあった。だが草が生え、稗が僅かでも生える土になったことに、拓一は大きな喜びを感じた。
そんなある日の夕べ、食事を終って、拓一が風呂に入ろうとした時だった。戸口からひっそりと入って来た者がいる。低い声で何やら言っている。耕筰が顔を出した。思いがけなく武井だった。
「兄さん!元気だったの」
武井は口の中でもぐもぐと何か言った。
あの爆発のあと、富の骨を新聞紙に包み、ふろしきに包んで腰につけ、吹上温泉から道をよろよろと歩いてきた武井のあの姿が、耕筰の胸に甦った。あの日共に、吹上温泉の宿に泊まって以来、今日まで武井はこの家を訪れたことはなかった。
「まあ、とにかく入って下さいよ」
拓一も出て来て、佐枝と共にそう言った。だが武井は、
「今度、俺、嫁ばもらって、歌志内の炭礦に行くもんだから」
そう言ってもぞもぞと帰って行った。三人は呆然と武井を見送っていたが、
「そうか、よかったな」
と、拓一が呟いた。だが、耕筰は、夏の一日、小山のように草を背負って歩いていた富の姿が、不意に目に浮かんだ。よかったとは耕筰には言えなかった。
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耕筰は耕作であるが、なぜだか続けて打ち出すと耕筰になり、めんどうなので書き換えませんでした、申し訳ありません。耕作が正しいです。
付箋は終わりましたが、つづく