和へ392 『続泥流地帯』を読んで。
いい加減、図書館に本かえさないと、最速のメールがきました。
気になった所に付箋つけてて、それを書きます。
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和へ386で下記のもの書きましたが少し補足します。
お母さんは遊郭で働いてた人で、深城の後妻さんで節子さんとは義理の母子です。深城は遊郭のボスですが、子どもの節子さんは若さの正義感に燃えています。
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「お母さんは、あんなひどいことを言われて追い出されたのよ。もうお父さんに、気兼ねすることなんかないわ」
「でもね、節ちゃん、世間の皆さんが・・・・・・」
ハツは弱々しく言ってうなだれた。
「お母さん、世間って何よ。世間ってのはね、要するに一人々々の人間よ。何を世間に遠慮しなければいけないのよ」
「・・・・・・・・・・」
「第一ね、お母さんは今まであんまり遠慮してして生きて来たわ。遠慮をしているとね、世間というものは、その遠慮した分だけ、図々しく踏み込んでくるものなのよ。もうこれ以上、何も遠慮するこんなんかないわ。・・・・・・・・」
「それでもねえ。わたし一人で生きてきたわけじゃないんで・・・・・・」あくまでハツは弱気だった。
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「ああ、あったら奴の前に頭を下げる。それが沼崎先生よ」
「そうだかも知れねえなあ、あの先生なら。
俺だば、奴の頭を二つ三つぶんなぐってやるとこだけどな」
「んだんだ。それがおらたちよ。だどもな、先生は、お前が悪いおやじだとか、何で後妻ば追い出したとか、そんなお咎めも説教も、何もなさらん。只ぽろーっと涙ばこぼして、頭ば下げた。これだばなんぼ深城だって、どうしようもないわな。それでよ、しょうことなく、娘ば置いて帰って来たとよ」
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耕筰(小学校教師)の話
「綴り方はなあ。見ないことは書くな。自分が本当に見たことだけ書け。見たことを見たとおりに書け。聞いたことを聞いたとおりに書け。そして、自分の考えたことを、自分の考えたとおりに書け」
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「うちの猫」 旗 義夫
うちの猫は、年がいくつか、僕はしらない。だけど、どこのうちの猫よりも大きくて、いつもじっと、ストーブのそばにすわっている。僕が茶の間に入っていくと、目をあけて僕を見る。それから
「ふん、お前か」
というような顔で、また目をつぶる。その様子がいかにも強そうだ。近所の人も、猫の王様だとほめてくれる。
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↑私も作家になりたいので、勉強になります。
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次々と耕筰は綴り方を読んでいく。きょうだいげんかをした話、借金取りが来て、その晩母が泣いた話など、前回には見ることのできなかったような内容もある。きっと耕筰が、
「何でも正直に書け、お父さんとお母さんがけんかした話だって、かまわないぞ」と幾分冗談まじりに言った言葉が利いたのであろう。それでもまだ、今までの癖が直らず、「春の小川がさらさら流れる」調のものが、全くないわけではない。
大体において、このクラスの生徒の綴り方は短かった。二百字詰用紙に、二枚も書けば長いほうである。それが八枚も書いているのが出てきた。水谷甚四郎という生徒である。題名を見て、耕筰ははっとした。「十勝岳の爆発」という題だ。
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