和へ353 叔母ちゃん問題。 | 宮崎光子のブログ

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和へ353 叔母ちゃん問題。

私はいいことを思い付いた。

叔母ちゃん問題は、現実問題として、叔母ちゃんの弟、つまり私の父が家に引き取り、私がメインになって家族でお世話をするのが現実的ではないかと思いました。

と申しますのも、父は少し前まで叔母の保護者をしていたからです。

叔母も食事を誤嚥するようになり点滴で栄養をとっているようですが、それだけかどうかはわかりませんが、おなかがすいて仕方がない状況があるようで、先に望みがないなら、死期が早くなっても自宅で見る方が良いのではないかと思ったからです。

父に話すと、絶対ダメで、やりたいなら自分の実力でやれとの事で、意見が合わないので、理解してくれるまで家には行かないと決裂しました。

親戚は私が財産を狙ってると思っているとか下品なことを言うので、成年後見人に一筆書いてもいいと言いました。

牧師さんは、私がお世話できるように祈ってくださいました。

私の財産は宗教心なのです。

そこで、教会に相談に行こうと思いましたら、駅で出家した尼さんに会い、般若心経の小さな本と緑色の数珠を頂きました。

私も出家に興味があるのでお聞きすると、仏教は日々の暮らしの中に修行があるとの事でした。

もともと中国の人で美しい尼さんでした。

名刺もいただいて浄空法師説法研究のサイトが載っていたのでさっそく見てみました。中国語の御坊様の説教が聞けます。

http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/14571697f4f41e35e22c3086b77f3f92

真心を用い、中道を行う

私たちは今日、まず自分を救うことです。自分を救うには、まず真心を用いることです。妄心を用いません。真心を用いても損することはありません。ある人は自分が真心を用いると、人に騙されてしまうので、どう過ごせば良いのかと心配します。(しかし)あなたの暮らしは人よりも快適で、人よりも幸せです。あなたは絶対に損はしません。絶対に騙されません。私が出家した時に、老師が私に教えて下さったことです。私が仏法を学んだのは、仏法を学ぶつもりはありませんでした。仏法を学ぶという考えはまったくありませんでした。私は老師に哲学を学んだのです。

老師は私に「哲学概論」を講じて下さり、最後の単元の課程は仏経哲学でした。私は仏経の中に哲学があることをようやく知りました。ですから私は仏経哲学を学んで入門したのです。その後章嘉大師と出会い、章嘉大師は私に出家を勧めました。私に釈迦牟尼仏に学ばせました。私は素直に聞き入れました。当時一般の人は、出家して経懺(きょうざん)【注1・仏事を学ばなければ飯は食べていけない、講経しても供養する人はいないと言っていました。ですから寺院の中に講経する人はおらず、経懺・仏事はとても盛況でした。
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 【注1】 経懺(きょうざん)・・・・僧侶が経文を読みながら他人に代わって仏に懺悔する儀式。

私はそれをしませんでした。私は出家して今年で五十三年になります。餓死することも、凍え死ぬこともありません。これは出家修行者への一つの模範です。しっかりと釈迦牟尼仏に従って歩むこと、釈尊の昔からの道を歩むことです。つまり講経・教学です。奉仕活動をする教師です。多元文化の社会教育です。仏陀の教学は国籍を問わず、民族を問わず、宗教の信仰も問いません。ただあなたが学びたければ歓迎されます。ですから仏弟子の中には、異なる宗教を信仰する人がたくさんいました。

釈尊は人々に宗教を放棄しなさいと勧めたりはしません。あなたの信仰は仏法を学ぶこととは別なので、衝突することはありません。仏法を学ぶとはどういうことでしょうか?仏法を学ぶことは、人としての身の処し方を学び、智慧を学ぶことです。あなたにとって良いところしかありません。悪いところはありません。ですから釈尊は、宗教を信仰する人に改宗するように要求することはありません。それは間違いです。完全に間違いです。これは経典の至る所に見ることができます。皆さんは『地蔵経』をたくさん読んでいます。『地蔵経』の中にはバラモンが出て来ます。バラモンは仏教ではありません。今ではヒンズー教と言います。他にもインドの様々な異なる宗教が出て来て、すべて釈迦牟尼仏に従って学んでいます。


つまり仏教を学んでも、クリスチャンでいいのです。

ではこのブログで仏教を学びながらクリスチャンでいましよう!