和へ279 儒教と石川五右衛門
先日、拘置所からお手紙が来ました。
読書好きの方で儒教関連の本がお好きとのこと。
儒教といえば親孝行ってなんとなく思ったので調べてみました。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D
儒教[編集
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古代の中国では、祖先崇拝
の観念の下に、血族が同居連帯し家計をともにする家父長制
家族が社会の構成単位を成していた。この家族の構成員たちは、よしんば卑劣で有害な親であっても親に無条件に服従すること、先祖の祭祀に奉仕することを「孝」として強制された。孔子
が、親を敬し、親の心を安んじ、礼に従って奉養祭祀すべきことを説き、社会的犯罪については「父は子の為(ため)に隠し、子は父の為に隠す」[1]
と述べた。やがて孝は『孝経
』において、道徳の根源、宇宙の原理として形而上化され、絶対服従と父子相隠は法律にも明文化された[2]
。また祖先祭祀にとって孝は重要な原理となる。
石川五右衛門は貧しい人のために大泥棒をしましたが、最後は息子と一緒に釜茹での刑になりました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111895716
本当の親孝行とはどのようなものでしょうか?
孝とは、儒教における重要な徳目の一つで親によく従うことだそうです。
儒教で「孝」で有名な舜と言う人は親に何度も殺されそうになっても
親に孝を尽くしたことで有名なのだそうです。
でも親が舜が死ぬ事を望んでいたなら殺されるのが親孝行だとなりませんか。
(本当にそうとは思っていません)
では本当の親孝行とは?
あなたが思う孝とはどんなものですか?
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ベストアンサーに選ばれた回答
2007/6/1713:24:19
単に親の意に沿うことが孝行なら、親の意が何であるかが大問題です。しかし、真の孝は多分親の意をも包含し引き受けた上で社会全体も視野に入れているものでなければならないでしょう。
仮に親が間違った意志を持つにしてもそれを変えることができなければ、最後は甘んじて受けなければならない。
儒教の孝を、単なる教えではなく信仰に近い宗教とするなら、親の親、親の親の親、・・・、祖先全般、人類の祖先までを尊重することになりますし、実は生命の尊厳、宇宙への畏敬までが系統的につながって信仰の対象になります。自然や神が別々無関係に最近の出来事によって信仰の対象になるのではなく、歴史以前の歴史に沿って体系的に理解された上で尊重されるべきものであるという考え方にもなる。ここに、最も身近な自身の親への孝は体系的に明晰にすべてのものへの視線を自己自身の由来を根拠に特に否定的にはならずに養う可能性を拡げてくれるものと言うことも出来るでしょう。
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キリスト教では「父は子である」と言います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D
聖書中の逸話[編集
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聖書
には、親に孝行であった人が幸福を得て、不孝であった人が災難を被る様が何度か描かれるが、中でも「ルツ記」は有名である。それによると、士師
の時代、ベツレヘム
に飢饉があって、エリメレクとナオミ
の夫婦はモアブ
の土地に逃れた。夫婦の二人の息子は、それぞれモアブ人の女、オルパ
とルツ
を妻にした。しかし、ナオミの夫はやがて死に、二人の息子も十年のうちに死んでしまう。
ナオミは老けていくうえ、異郷にあっては頼る者もいないので、ベツレヘムの飢饉の終息を耳にしたこともあって、意を決して故郷に戻ることにした。二人の嫁もついてきた。ナオミは、二人の境遇を哀れに思い、言葉を尽くして、実家に帰るように勧めたが、二人は泣いて同行を求めてやまない。
しかし、一緒にベツレヘムに行っても、将来の見込みがあるわけではない。二人の若い身の上が哀れに思ったナオミは強いて帰郷させようとする。オルパは、やっとその言葉に従い、泣く泣く暇乞いして実家へと帰っていった。でも、ルツだけはどうしても離れない。
あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。
ルツ 1・16-17
貧しい、老いた姑に、ついてゆき、どこまでも行こう、どんな難儀でも厭おうとしない。 ナオミも、彼女の美しい心に感動し、そのまま連れだって、ベツレヘムへと帰路についた。
二人がベツレヘムに着いたのは、ちょうど大麦の刈り入れの時期であった。当時のユダヤの慣習では、異邦人、寡婦、貧しい人は、刈る人の後から落ち穂を拾ってもいいことになっていた。
よって、ルツは、ナオミの許可を得て、落ち穂拾いへと出かけたが、幸いなことに、その畑主は、エリメレクの親戚にあたるボアズ
という豪農だった。 ボアズは、畑を見回りにいって、ルツの熱心な働きぶりにしみじみと感心した。 昼には呼んで他の小作と共に食べさせたり、敢えて麦穂を落として、心おきなく拾わせるたり、いろいろと親切にいたわった。
一方のルツは日暮れまで働いて、一斗あまりの麦を拾い、それと昼飯の余りを持ち帰って義母を喜ばせた。その後も、毎日ボアズの畑へ行って、真面目に働き、一日もナオミに孝養を怠らない。 ボアズはルツの心がけの美しさに、心から感服し、ついには、ルツをめとって妻にし、オベデという男子を生んだ。このオベドの子がエッサイであり、その子は有名なダヴィデ王
となり、その子孫からイエス
が生まれた。
このように「ルツ記」には、自ら逆境を覚悟して不幸な親に仕えた者が、一転して、身に余る幸福を得たストーリーが描かれ、孝行な人は、この世でもあの世でも大きな恵みを受ける、とは決して言いすぎではないと教える。[19]
[20]