フィギアスケートのようにありたい | PlatinumClubⅡ

PlatinumClubⅡ

森圭吾の音楽人生「Platinum Club」の復活版

これまでに、コンクールや試験で何百人、いや少なくとも1000人やそこらは

余裕で超える数を審査してきた

 

それもフルートのコンクールばかり

 

そしていつも思うことがある

 

審査員は自分の知識、経験、知見などにより受験者の評価を下すわけだが

とかく専門性の高い、自己の楽器において、もしくはこれまでに録音媒体や自分の

演奏経験によって、それに合致するかしないかで、ある程度評価を下すのだと推測できる

 

しかし、これらの個人の知見というものには、具体的基準があるわけではなく

あくまでも、漠然とした非常に曖昧な自分の尺度という大きく個人差のある

まったくデータのない、ただの感覚で良し悪しを判断しているとしたら

ともすれば、好き嫌いで判断している一面も排除できない

 

フィギアスケートのような芸術性を問われるジャッジにはいつも、審査される項目が

細かく分かれており、減点、加点など他項目の大変厳しい審査が、しかも公表される

 

だから、誰も目にも明らかな不正が公の場にさらされるため、多少は微増微減の依怙贔屓

はあるかもしれないが、あからさまな不正は避けられると思う

 

さて、音楽界に目を移せば、例えばフルートの審査にはフルーティストしかいない

他の楽器も同じだ

僕が思うに音楽のコンクールというものは、たとえばフルートを使用した音楽の

コンクールであって、フルートを使用したお上手品評会ではないのである


しかし、現実ではそうなっているとしたら、将来の、いや現在ですら音楽界は危うい

現に昨今のオーケストラにしろ演奏家にしろ、無味乾燥な演奏が氾濫していると言われて久しい

 

そのような、危機的状況を脱するためにも

審査における基準が必要だと考える


どんなにフルートがお上手でも、審査基準の制定によってお上手だけでは通らない仕組みが必要だ

 

たとえば師弟関係、もしくは繋がりのあるものが出場していた場合、限りなくその審査員を

排除する、もしくは採点を辞退する

審査における不正行為の排除が絶対に必要だ

 

審査基準は減点加点を定められた点数内に項目別に審査を行う

 

①技術面 

音程の正確性

リズム感の熟達度

フィンガーリングの正確性

音色

音量バランスの感受性

ミスの重要度におけるマイナス点(その場における重要度は異なるマイナス点とする)

ブレスコントロール及び呼吸法

奏法的正しい姿勢

 

音楽面


解釈(にわかには信じがたいかもしれないが、解釈すなわち伝統に導かれた解釈は、音楽の9割を閉め、自由が許されるのはほんの10%以下という常識を現代の演奏家たちは一切教えられていない)


フレーズにおける音色の多様性のコントロール

正しい解釈に基づいた芸術的アピール性

 


そして何より審査員がこれらの項目において熟達していなければ

ならないことは明らかである

 

しかし、このようなことを満たしているコンクールなど、世界のどこにもないのが現実なのだ

 

 

以前、ヨーロッパの国際コンクールでの出来事

応募者多数のため1次審査の前に絞り込みhが行われた

世界的な奏者ばかりが審査を務めるため、予選にまでフルーティストを全員

揃えられなかった大会本部は、様々なジャンルから審査員をあつめ、作曲家や

音楽評論家、弦楽器奏者、声楽家、などなどその道の権威を寄せ集めた

 

そして、審査終了後蓋を開けてみると、そこには師弟関係や、派閥の繋がりの

全くない、見事なまで不公平感のない人材が残されたのだ

 

そして一次予選が始まると、また木の木阿弥の様相が展開され、終了後、その夜の審査員と

パーティーにでかけたが、そこには今後入賞が予想される面々が顔を揃えていた

 

これがコンクールの現実なのだ

 

僕はオーケストラで長年音楽経験を積ね、様々な作曲家に巡り会うことができた

パート譜の後ろにある膨大な音楽的エネルギーをオーケストラのど真ん中で感じられた

ことは最高の経験だった

 

そして世界トップレベルの指揮者たちが数年に一回訪れるたび、その見識の深さに

圧倒されたものだ

 

しかし数年に一回では少なすぎた

 

世界で活躍する友人たちは、日替わりメニューのようにそういう指揮者たちと

同じ時間を共にしているのが、心底羨ましかった

まあ、それも自分の実力の無さを象徴しているのですがね

 

しかし、実力がなくても努力は出来る

年齢とともに、フルートを吹くという行為は体力的に難しさを増し

心の音楽は膨れ上がっていくのです

 

そんな折、駆け出しですが指揮者としてより多くの作品に触れることが出来るようになり

フルートのパート譜がいかにちっぽけだったかを目の当たりにすることになる

 

プロのフルート奏者と名乗るからには、少なくともより、見識を深く、そして音楽に対して献身的でありたいと常に思うのです


その正しい方向性が次世代を担う若き奏者たちを正しく導く唯一の方法ではないでしょうか?


僕が今後音楽界、若き演奏家たちの発展のため、成せることは小さいけれど、目の前の出来ることを1つずつ取り組んでいきたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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