合気開眼 保江邦夫先生に至るまで
父が久留米の断食療法の病院に入院する前、加古川の合気道場に顔を出し始めるようになり、ある想いが呼び覚まされます。
それは大東流合気柔術佐川幸義先生のことです。
一時期、武道雑誌や本に掲載されている道場や先生の講習会などに頻繁に参加して、見識を広めていた中、佐川先生に直接教えてもらう事は出来ないまでも、私が全く相手にならない木村達夫先生など先輩方を信じられないような合気を使った技で吹っ飛ばしていく、九十歳を越した佐川先生は正に漫画に出てくるような達人でした。
佐川道場に入門できた後に、東京の小平へ越して、新しい道を進むつもりでいたにも関わらず、父の反対や御託宣での指示で、東京まで通う方向に方針を変え、柔道整復師の専門学校に通う学費を貯めたいという経済的な事もあり、当時高給で話題になっていた佐川急便のドライバーとして働きはじめたまでは良いものの、その佐川急便自体が、正に佐川道場のような、とてもハードな労働で毎朝6時過ぎに出勤し、帰宅は夜の10時を過ぎるような毎日で休日を使って東京の道場に稽古まで行くような甘い考えを持てるような状況ではなく、身体が慣れて余裕ができるまでは諦めようと、仕事に励むのでした。
それから一年ほど経った頃に武道雑誌「秘伝」の高岡英夫先生の記事で佐川幸義先生が亡くなった事を知り、愕然とするのでした。
それから、加古川合気会の稽古にも参加することなく、二年ほど経った頃、既に佐川急便も辞め、まだ学校も少なく寄付金も必要だった柔道整復師の専門学校ではなく、カイロプラクティックや整体を学び始めようとしていた時に佐川幸義先生を大絶賛していた高岡英夫先生が大阪でゆる体操の無料講習会と大阪では最初のワークショップを開く事を知り、あれだけ、佐川先生の事を絶賛している人なら何か掴んでいるのだろうと、申込み参加する事になります。
その会場で元東大助教授という肩書きを持ちながら、高岡先生の何とも言いがたい、真似するのが恥ずかしいような駄洒落や冗談を交えながら行われたゆる体操はなんとも気持ちよく、確かにこの延長上に佐川先生の合気があるかもしれない、武道とは違うけど、高岡先生の身体意識理論は私が学ぼうとする整体やスポーツ選手の指導などにも役立ちそうだし、これはしばらく学んでみようと考え、高岡先生の実演の後の質問コーナーで思い切って質問してみます。
「以前大東流の佐川道場にも少しだけお世話になった事があるのですが、高岡先生についていって学ぶ事で佐川幸義先生のような合気ができるようになりますか」
高岡先生はこう応えてくれました。
「才能のある人はみんなある程度学んだ後、技を盗んで出ていってしまうんだよ。」
そのはっきりしない応えで、ちょっとはぐらかされたような気持ちになりましたが、その晩から、兎に角、気持ち良いこともあり、ゆる体操を毎日何時間も続けて行くのでした。
そしてゆる体操を続け二週間ほど経った頃、ふとある事に気がつきます。
佐川急便で働く事によって、筋肉は強くなったものの、ガチガチになっていた腰や背中、さらに、毎日、荷物を肩に担ぐ事で肥大し、痛みを伴っていた右肩の痛みが消えていたのです。
整骨院で電気をあててもらったり、指圧、マッサージなどをしてもらったりしても全く改善されなかったのに・・・・
それからしばらく、ゆる体操と高岡先生の身体意識理論にはまっていくのでした。
それから、さらに2~3年が経つ頃、色々学んできたにも関わらず、結局は「ゆる」と「センター」(詳細は高岡英夫氏から多くの著書が出ているの参考にして下さい)と分りだし、毎月行われるワークショップから離れ、学んだ事が実際にどれぐらい使えるかという興味になって行きます。
そして、神戸の合気道の道場へ向かうのでしたが、先に書いたような理由で、その足を世界チャンピオン2連覇した極真空手中村誠先生の神戸本部道場へ向けるのでした。
結果的にはやはり、理論だけでは大会に出て通用するわけでもなく、現実の厳しさを味わうのですが、中村誠師範からは気に入られたようで当時、電波少年という番組で、テレビを賑わせていた「なすび」に顔がよく似ているということで、師範からは緊張した稽古の中で
「なすび~ 」
と呼ばれ、回りを笑わせながら、緊張感を和ます役に使ってもらったり、合宿の時の飲み会などでは、全日本や世界大会で活躍する各道場の先輩方が集まる輪の中に、白帯の私を呼び、
「こいつはわしの弟子やからと・・・」
師範からかわいがられているのを見て不思議がっていた当時軽量級の世界チャンピオンだったT先輩には、
「強くてかわいがられてるんじゃなくて、懸賞生活してるなすびに似てるから、かわいがられてるんですよ~」
と申し訳なく照れながら話したりした思い出があります。
そんな状況の中、会社経営でやっていた神戸の治療院では店長もまかされ、今迄の出張マッサージという古臭いイメージを健康宅配便、略してケンタク(英語にするとデリバリーヘルス・・・略して・・・)という名称に変えて、深夜まで営業する中、用心棒気取りで若さと勢いでエリアを拡大していっていきました。
施術者として働きたいと求職に来た中国人の方が、なんと神戸大学に医学留学で来て中国では医師国家資格を持ち、旦那様も某大学医学部で医学研究をしていて博士号を持つなど、単に施術をするだけではもったいないと感じ、その先生に学長になってもらい中国整体(推拿)の学校なども開き出したりもして展開して行くのです。
しかし、少しずつ、商売としての会社の方向性と本来自分が目指していた治療家としての道とギャップが開いて悩み出していた頃に父が白龍神社で前々から繋がりのあったP社のお店を始めると言い出したのです。
勤めていた治療院でも代理店として取り扱っていた事もあり、P社の商品なら良いと思い、私は手伝える事があったら手伝うからと、気軽に考えていると、それは個人がする代理店販売店レベルではなく、保証金や敷地の広さなども必要なフランチャイズ店で開業には合計二千万円以上かかる事を知り、これは父だけに任せていると大変な事になりそう、と治療院を経営している社長に伝え、社員から完全歩合の委託施術者として約半年働き、退職、そして、ファイテンショップ加古川店オープンに向け京都にある本社や岡山支点に店長研修を受けるなど、開店準備に東奔西走するのでした。
そしてショップオープン前に先に書いたような一回目の父の脳梗塞が起こり、奇跡的に何の後遺症も残らず復帰し、当初は危惧していた売上げも半年後には月間で八百万円を越し、加古川という中堅都市にも関わらず、全国のファイテンショップでも上位に位置するなど、神懸かり的状況を見せてもらうのでした。
私はその後、店が順調に行っている事もあり、本来の治療師としての道を歩みたいと思い、兄にファイテンショップの店長を代わってもらい、ファイテンショップも手伝いながら細々とショップの2Fで整体などをはじめ、無痛バランス療法、イネイト研究会、呼吸整体、気導術、気光整体、レインボー療法、アプライドキネシオロジーなど興味を持った治療方法をどんどん学びながら、地域のクラブでがんばっている中学生や高校生のスポーツ傷害も診たいと思い、国家資格をとる為に芦屋の関西健康科学専門学校に通い出すのでした。
そのように順調に進んでいった中、父が二回目の脳梗塞をおこし、大きな転換期を迎えます。
約十年ぶりに合気道を始め出すと、かつての想いがふつふつと呼び戻されるのでした。
父がリハビリセンターに入院し、少し余裕が出てきた専門学校の帰りの事でした。
神戸三宮にあるジュンク堂の武道書コーナーにふと立ち寄ると、
武道の達人―柔道・空手・拳法・合気の極意と物理学/海鳴社
という本が目に入り、パラパラとめくると、何やら、物理学者が科学的に達人の動きを解説していて、これは机上の空論かな?と思いながらも、著者のプロフィールに目を通します。
「・・・・武の神人とうたわれた故佐川幸義宗範の直伝を受けた大東流合気柔術を心の糧とし、真理探究のみを目指して生きている・・・」
「えっ、この人佐川先生の門人さんなんや・・・・しかも岡山か 」
「この本を買うと、また佐川道場で見たあの合気を求めてしまうかもしれない・・・」
一瞬躊躇するものの、購入し、その後、予想通り、保江先生が次に出した「武道VS物理学」それと、最終的には佐川邦夫というペンネームを使い著作した「魂のかけら ある物理学者の神秘体験」を読み、保江先生に手紙を出し、岡山の道場に向かうのでした。
それは父が脳梗塞で倒れて、ちょうど一年経った二月でした。
(二〇〇八年二月一七日ブログより)
いくら本で自分のことを運動能力ゼロの痩せた青白いダメ人間と書きながらも、私がかつて体験して度肝を抜かれた大東流合気柔術佐川幸義先生の門弟で、しかも物理学の大学教授と聞いては、いくらメールのやりとりで丁寧な返信をもらっていても、いささか緊張して岡山駅の待合場所へ・・・
でそこにに現れたのはベンツでサングラスをかけたパンチパーマ崩れの親父・・・・
今後の展開を期待して、そのベンツに乗り込みながらも
「ひょっとしたら、わざわざ岡山まで国家試験前の大事な時期に来たのは間違いだったかな」
と少し後悔の念を感じていると、
「私、目も悪くて、紫外線を直接浴びると良くないんで、昼間の運転は紫外線カットのサングラスかけていてすいません」と・・・
それを聞いて少し安堵し、木村達夫先生とうちの専門学校のS先生との話や、後ろの座席に同乗していた女子大の教え子さんとの会話などで和やかな雰囲気で目的の道場へ。
道場につくと市営の小さな道場で、さすがに、同じ小さくても佐川先生の道場のように赴きはありませんでした。
そんなことを思い出しながら、私を含め2名が初参加だったこともあり(後に名刺交換などもして知るが某大学医学部の教授でした)簡単な自己紹介から始まって、やはり最初は合気揚げ・・・
まず、保江先生と一番弟子のHさんがお手本を・・・
腕だけではなく身体まで見事にあがっているが、でも、これはどこの道場でもやっているお約束のようなもの。
しかし、少し違うのが、お弟子さんが保江先生に合気挙げをやっても、あがる、あがる。
身体まで挙がって、それを保江先生が喜んでいること。
それは佐川道場での古い門人と若い門人とではありえない光景・・・・
「実際はどうなんだろう?」
そして、その解説が保江先生からありました。
「みんな力と力がぶつかりあっていると言っているけど、実際は殻と殻とがぶつかりあっていて、その殻を取ってあげるといいんですよ。」
師匠の実力を知るには弟子の実力を見るのが一番と、早速道場生どうしの稽古が始まると、一番弟子のHさんへ
結果を先に言うと、先ほどまで目の前で行われていたような身体全体が浮き上がるようなことが私には起こらず、もちろん私が合気挙げをかける側になった時も。
しかし、その状態からHさんが
「私が西島さんと同じだと考えると・・・遠いとこから学びに来て、同じ種類の人なんだと考えると、それで、もう一度技をかけてもらえますか?」
すると、Hさんの身体が大きく上にあがりました。
私は心の中で
「あ~やっぱりそうか」
この言葉にはいろんな意味がありますが、また一つ確信ができました。
その後、違う技で直接保江先生にも技をかけてもらい、見事に技がかかる時と途中詰まって技がかからない時と、
「ちょっとでも技をかけようと思うとだめなんですよ」
と自分を戒めるように、私を優しく諭すように笑いながら。
そして私が技をかける時、
「病気のお父さんと稽古していると思ってやってみて」
すると、
「そうそう!」(保江先生)
心の中で
「物理的に力の方向や意識的に力を抜いてどうこうするんではなくて、動かなくなってしまった腕をなんとか元に戻して動かせるようにしてあげよう、リハビリだと思ってやるといいのか・・・」
すると、その後はもちろん大袈裟にやってくれているんですが、面白いように保江先生は私に投げられ、倒されてくれました。
子供の頃、親父と家で稽古していた頃を思い出しました。
子供心にも、親父が演技で技にかかっていたのがわかっていたけど、その本当の意味合いがわかりました。
「技が効く、効かないというんではなく、正しいやり方かそうでないかを教えてくれていたんだ。
この本(武道VS物理学)の「はじめに」にも書いてありますが
武道vs.物理学 (講談社プラスアルファ新書)/講談社
「それは、日本武道の究極奥義と目されている「合気」と呼ばれる技法に似て、一瞬のうちに相手を無力化することができる。」
(中略 私も一度指導を受けた有名な古武術研究家のお話)
「この本は、そんな反骨精神丸出しの理論物理学者の警鐘だ。
物理法則や原理に基づいた科学的な研究を経ない限り、いつまでたっても武道の究極奥義のからくりが明らかにならないだけでなく、達人伝説として残されているだけの究極奥義を誰でもが身につけるための手がかりさえも得られずに終わってしまうことへの・・・・・・。」
このように保江先生の「合気」は佐川幸義先生の「合気」や植芝盛平翁の「合気」には到達しているわけではありません。
しかし、合気修得への道を志している方々には、手がかりになる何かを与えてくれるんではないでしょうか?
少なくとも私にはなりました。
追伸:からだをPCで変換すると、殻だ と出てきました。