自分で作った哲学用語辞典 | Tada's blog

自分で作った哲学用語辞典



  1。個人

 自己を規定する必要性に迫られている、西洋近代からの観念
によりあたかも中心が存在しているかに見える自己の形成にお
いておかしさを常に感じていた。真の自己の形をよくよく見て
みると、中心に穴が空いた形に見えてくる。それは自己規定性
を言語で語り尽くせないことの象徴であり、それをあたかも、
中心を持ったもののように、無理矢理に考えていたのである。
その穴をよく眺めてみると、そこに動きを見ることができる。
自己規定しようとして、その穴に迫る内側への動きと、自己規
定不可能性による、外側への動きである。見ようによっては、
中心の穴の膨張と収縮に見ることができ、自己を語り尽くせな
いことが容易に想像可能である。

  2。他者との関係

 一方に自己と自己から把握できる世界をとり、もう一方には
、他者と他者から把握できる世界をとる。
 先ず、自己と自己の世界から見ていこう。
1。で見たような顕微鏡的視眼ではなく、おおまかに、自己と
いう円上のものを思い描いて下さい。そしてその自己の世界と
は、自己が把握できる(意識化でも無意識化でも)限りの世界
のことにします。もちろん、有限ではありますが、人により広
狭様々です。その中で、自己は自分の眼で見える範囲だけを把
握しようとしたり、地球大に意識を広めることもできます。こ
こにもいわゆる自己の収縮と膨張が見られます。膨張すれば世
界を全部自分のものにした様にも感じることができるし、収縮
すれば収縮するほど、自己を超越して、生命の源というような
ものに、つながりを感じることができるのかもしれません。こ
れは空間に関することでありますが、時間に対してもいえるこ
とです。通常現代人は、三か月くらいの予定を常に頭に入れて
いるはずである。それはあたかも現在を間延び、言い換えるな
ら、膨張して、その三か月間を現在とみなしている。そこで時
間を収縮するとはどういうことなのか。それは瞬間・瞬間とい
うことになる。高度金融資本主義社会の中では、現在をできる
限り膨張して、予定を組み、人、金、モノを集約させる、その
中で、収縮された時間である瞬間・瞬間に市場で勝負がなされ
ている。その間延びされたことにならされて、膨張と収縮の筋
肉細胞を機能不全にさせてしまう。そうして、一定の行動を繰
り返すことが習慣化される。
 自己と同じように、他者と他者の世界を考えてみよう。無限
に広がるかに見える他者の世界。もちろん他者は有限ではある
のだが、もし生者だけでなく死者、そして、まだ生まれていな
い人々をも含めるとなると、自己が一人にも関わらず、他者と
は一体どのくらいの人の数になるのか想像するのは難しい。二
つの分離した世界ととらえ、その相互交通性に他者との関わり
を見出すと、それは近接他界感における能の複式夢幻能の形式
に相似する。他者に会う度、それが生者であっても、死者とし
てのイメージであっても、自己世界から他界に侵入し、その他
界からの視点を得、また自己世界にかえっていく。このことに
通じるのは、仏教の空の思想である。俗界から聖界に入り、そ
こで浄められ、また俗界にかえっていく。
 自己世界と他者世界で考えると、自己から他者に関わること
で、新たな視点を得ることができ、また自己からの視点に組み
入れていく。決して同化することがない自己と他者が頻繁に往
復されることで、他者世界が自己世界に近付いていき、終いに
は、重なっていく。自己言及的というと、ただ自己の中に他者
の視点を獲得していくことになると思うが、私が強調したいこ
とは、その重なりである。他者との関わりの近さによって、新
たな自己の一面を発見することになり、そのことによって、自
己の重なりが生まれてくる。
 ここで1。で見た自己との関わりとその重なりを考えてみた
い。それはこういうことになる。つまり、多重性を持った自己
を積極的にとらえようということである。より現実的にいうな
らば、多種の職業に同時につくということです。このグローバ
ルの世界で才能のある人は、ひとつの職に限らず、例えば、作
家兼演出家兼俳優兼マジシャンという具合である。一つの職で
才能を発揮できるとその応用で、他の職でも才能を発揮できる
機会に恵まれるということです。それもときにはグローバルに
活躍できます。もちろんその才能ある人のみを重要視するので
はなく、ただそのマルティプルな才能を積極的に評価しようと
いうことです。経済的な下支えは今までどおりに適切にその適
切な対象に成されなくてはなりません。多種多様な職を兼任す
ることは、専門化が進んだ現在では、一つの職をしているだけ
ではではリスクがあるので、そのヘッジのために複数をこなす
というマイナスのイメージがありますが、日本の江戸時代の様
に自己規定性があやふやで、その職業ごとに名前を持ち、多種
多様な職を兼任し、私が1。でみた、中心に穴が空いたモデル
のように、自己の宇宙の中で、その穴の周辺をその多様なもの
でうめていく様に私には感じさせられます。西洋近代の円の中
心が埋まっているような自己(個人の名称が一つの自己規定さ
れたもの)では、自己規定性は重要であり、その中で社会的責
任などを担わせていたものだけでなく、中心が空いている周辺
の思想を組み立てたいのです。多様というとそれぞれがバラバ
ラに異なるものが散りばっているものですが、多重、自己の多
重化をはかりそれをもって自己としていくと、一人一人の生き
方だけでなく、社会的責任の所在の考え方も変わっていくと思
います。今の規定された自己の世界では、法律によって、スケ
ープゴート探しに躍起になり、その人物に単数でも複数でも責
任を押し付ける体質になっています。それが多重化された個人
が増加する世の中では、その責任を個人に帰着させるのではな
く、その他者とのつながりで罰することができるのではないか
と考えています。

  3。政治・経済への応用
 
 経済においても自己の収縮と膨張との関係によって考察して
みたいと思います。前に少し見た様に、空間的にも時間的にも
自己のインフレーションを前提にして経済活動はなされていま
す。その方が合理的で労働集約的だからです。予定調和的な行
動により多くの力が結集される。それが、だんだんに一部の個
人が一つの分野で専門家となり、大活躍することが増えてきま
した。勿論、ビル・ゲイツでもウォーレン・バフェットでも会
社としては多岐にわたる事業を展開しています。しかし個人と
しては、父であり、夫であり、経営者でありという役割はどん
な人でも多様ではありますが、職業としては、まるで違う分野
の仕事をしながら、時にふれ、それらを合わせて創造力に溢れ
た仕事をすることができるという創発の論理を見出すことはで
きません。
 その創発の論理を俯瞰するために、自己の収縮を考えてみた
いと思います。これも前に見た様に、自己の時間における収縮
の行き着く先は今という瞬間です。瞬間瞬間に生み出される創
造性と偶然性と時々の富。もちろんそれだけで経済を回転させ
るのは危険ですが、私がいいたいのは、自己の収縮を体験する
ことにより、膨張にはなれているので、これも前に述べました
が、収縮と膨張の蠕動運動を体得することができる様になると
いうことです。そうすれば、膨張による多くの人が今現在就い
ている職に重なって、収縮による仕事ができるようになる。も
ちろんそれを促進するような政策をうたなければなりませんが
、それ以外にも複数の仕事をすることによって受けられる恩恵
を積極的に見出していかなくてはなりません。その収縮と膨張
の意識的繰り返しが、多重化された個人には欠かせなくなる作
用をもたらすはずです。
 政治の面で考えられる事は、他者性の重要性についてです。
現在の自由民主主義の世の中で私がおりにふれ感じることは他
者の不在ということです。他者の不在を克服するためにも、自
己の中の他者だけではなく、真の他者も含めた世界を観るべき
ということです。つまり、声にならない声を聞くことです。そ
れは弱者といわれる人の声を聞くだけではなく、過去(死者)
・未来(まだ生まれていない人々)の人にも自然に配慮できる
ような世界観を構築しなくてはならないということです。

 4。時間
 時間の収縮と膨張における偶然性と必然化
 過去の重なりとしての今・ここという歴史性
 スパンを長くとってものを考える。
 5。生と死
 命がけと言うこと
 6。自己という空間と愛
 自己の膨張と収縮
 愛と重層的な経験 多重他者の発見
 最も近い他者という逆説
 
 7。自己同一性(アイデンティティー)
 自己規定性の弛みが多重化した自己をもたらす

 8。倫理
 定言命法
 9。宗教
 神の近さと遠さ
 政教分離
 人為的に中心に据えられた宗教
 10。社会生活
 中心に据え置かれた社会性
 11。偶然性
 自己収縮と自己膨張の必然性
 12。自然【1】
 自分がいない世界を想像してみよう。勿論自分がいなくても
他の人間はいるのですが、自己と自己がいない世界の重なりを
考えてみたいのです。自己と他者の重なりではなく、自己がい
ない世界。自己が死んでしまった世界もしくはまだ生まれてい
ない世界。そのような世界と自己の遭遇と重なり。それはどの
ような関係性を型創るでしょうか。
 他者のときと同じように、自己は自然という他者と重なり、
そこで得た視点を自己の視点に重ねていく。自然と対話をして
いく。自分一人だけで、森の中を人工物を一切視野に入れずに
歩いたり、寝そべって物思いにふけたことがある人なら分かる
と思いますが、何ともいえない心地よさと、このような場所を
守っていかなくてはならないと実感すると思います。そのなか
から、普段の行動を見直したりすることができる。そのような
経験を子供の頃から重ねていけば、他者と重なる様に、自然と
も重なっていくことができると思います。その時に自己の伸縮
可能性が増大するようになります。
 13。新たな社会性
 
 14。自由

 15。永遠性
 無限との関わり
 16。身体の他者性

17。言語・法・貨幣という他者
 往復・応答可能性の中にある自己

 可能性選好

 貨幣から観るその信用性
 信じるしかないこと
 貨幣が貨幣として通用するには、貨幣に対する信用がなくて
はならない。普段貨幣に対する信用性を意識しないほどに自然
なものだが、そこに確固たる実体はなく、あやふやなものだ。
むしろあやふやだからこそ、通用しているのかもしれない。そ
こには意識的な信用心なき信用心のみであり、究極的にはそこ
にのみ頼っている。法や言語もいうまでもなく、資本主義も民
主主義も、それ以上のシステムがないという次元で、信用する
しかない。代替案はなく、今のシステムをより良くしていくも
しくは、より悪くしない様にしなくてはならないという。その
一点だけでの信用性。言語も、その言語以外では、思考をする
こともできず、それ以外では如何ともしがたいという局限性に
立たされている。
 しかし、その信用は、言語・法・貨幣が他者であることで保
たれている。もしそれらが、自己であった場合どうするのか。
逃れ得ない闇の中で彷徨う様ではないのか。それらが、他者で
あるからそれに近付こうとも、遠ざかろうとも、自由である。
追い求め続けることもできるし、あきらめて現状に満足するこ
ともできる。あたかも恋愛のような様相をもち、他者であるか
らこその所業である。それでも、恋人と違うのは、確固とした
実体を持たず、追いかけても追いかけても、また逃れようとし
ても、その行為自体が意味をなすだけで、一向にどこにもたど
り着きはしない。貨幣がなくなるわけでも、法がなくなるわけ
でも、言語がなくなるわけでもない。これでは、言語・法・貨
幣が自己と仮定した暗中模索の状況と同じではないか。それが
言語・法・貨幣という他者が自己と重なり、あたかも、言語で
現され、法に従い、貨幣によって生活ができることを自然のこ
ととして、それこそが自己であるかの様に振る舞っている。
 確固たる自己もなく、言語・法・貨幣も実体がない。それで
は自己が言語・法・貨幣という他者と重なる、そのときの自己
と他者の往復可能性、また、応答可能性自体が自己というべき
ものではないのか。そうでなければ、他者という境界が揮発し
てしまい、言語・法・貨幣を自己としても他者としても、違い
がなくなり、広がりが見えないだけでなく、追いかけても限り
がなく、逃げようにも行き場がなくなってしまう。~からの自
由も~への自由もない。
 しかし、自己を他者との往復可能性や応答可能性に見出すと
、他者との距離、すなわち、他者と近付くこともでき、遠ざか
ることもできる自由度を持つことができる。他者とぴったり重
なり合うこともできる(=意識下で自己をなくす)。遠ざかる
ことで、言語でもって言語・法・貨幣というものを意識的に考
えることができる様になる。
 ここで貨幣に関連する可能性選好とでもいうべきものについ
て考えてみたい。貨幣が貨幣として成り立つためには、貨幣を
持っておき、使わずにおいて、欲しいものを買うときまでため
ておいて、欲しいものが出てきたら、貨幣によってその値段に
値する貨幣を支払う。ここでいう可能性選好とは、その貨幣を
ためておくそのことと、本当に欲しいものが出てくるまで待っ
て、そのときまで貨幣を使わないでおく、そのことだ。

 可能性思考
 可能性志向
 可能性嗜好
 エネスゲイア(現実態)/デュナミス(可能態)
 可能性に賭ける
 
 多重称性
 多重名性

 18。芸術と芸能
 身体で体現する芸能

 19。狂気
 非日常性
 20。暴力
 愛という暴力
 暴力の身体性

 21。歴史性
時間の重なり

 22。所有性
 固有性

 23。可能性選好
 偶然性
 
 24。相互交通性

 25。媒介性

 26。往復=応答可能性
 
 27。関係性欲望と可能性欲望
 
 28。自然【2】
 自己形成力という自然(ピュシス)

 29。身体の中での相互交通性
 脳で考えたことを身体を通して表現したり、体を動かすこと
で、脳が反応する。ここに相互交通性が見出される。
 
  相互交通性と往復=応答可能性

 30。所有権と身体

 31。政治・経済の膨張と収縮のバランス

 32。可能性欲望と関係性欲望(所有性欲望)のバランス


 
 33。芸術活動
 エネルゲイア(現勢態)とデュナミス(可能態・潜勢態)
 ポイエーシス(制作)
 ミネーシス(模倣)
 ペルソナ(人格)
 なる・うみだす・つくるの三重構造
 ピュシス(自然の運動)
 能劇の場合、他界にいる・他界にいない・現実界にいる・現
実界にいないの四重構造と意図的に動くと意図的に動かないの
二重構造合わせて六重構造。それが、他の演者並びに、観劇者
という他者に重なり多重化される。勿論演者だけでなく、舞台
装置も相まって、空間が創られる。それは演劇の場合。
 別の観点で、『書くこと』を考えてみたい。
  
34。原悲
 慈悲の中の『悲』の意味
 苦難を取り除くと言う意味。
 同情する。あわれむという意味。

 35。重なりの辞書的意味
 はらむ
 36。なる・うみだす・つくる・自然
 その四重奏
 37。カタルシス(苦難の浄化)
 苦難の浄化
 
 

 急
 まとめ。
 自己の多重化
 自己規定性の弛み
 自己の収縮と膨張
 
 自己と他者

 自己と自己世界、他者と他者世界に便宜的に分けて考えてみ
る。勿論、自己世界には他者がいるが、自己が捉え得ない他者
の意味を強めるために、分離して考えてみるのである。
自己が他者と出会うとき、他者世界を通り、そして自己世界に
かえってくる。その往復運動に、自己が重なるイメージを持っ
てしまう。それは能を見ている時に感じるものに近いような気
がする。現実界にいながら、舞台を見ていると、他界(死者の
世界)に連れていかれ、そして、また現実にかえっていく。そ
の時、他界は現実に重なり、世界が豊かになっていくように感
じられる。また、仏教でいう、空の概念も同じようなものだと
思う。現実という俗界にいて、そして、聖なる空間を通り、ま
た、俗界に戻っていく、その時、聖なる空間を通る前と後では
、雲泥の差がある。すなわち、幾度もの俗界と聖界の往復を重
ねることで、聖なる空間が、俗界に重なるのである。それこそ
が、空というものに違いない。そのプロセス自体が。
 それをアナロジーにして、他者と出会う度に、他者世界を通
り、その他者の世界は自己の世界に重なっていく。すなわち、
新たな他者に出会う度に、重なっていくので、自己は多重化し
ていくことになる。
 空間的に自己を考えてみると、自己を深く理解しようとすれ
ばするだけ、言語化できない領域が広がっていく、あたかも、
自己という円を考えると、中心が空いているドーナツ型になり
、その周縁のみ認識可能なようなものだ。そのドーナツが重な
っていくと、中心にいつも不安定な状態が継続される。それを
補うため、人は他者を支配しようとして、他者を自己に組み入
れようとする欲望を抱いてしまう。それを予防するためにも、
自己は、中心に、有為の他者すなわち、生きている人々ではな
く、無為の他者、すなわち、亡くなった方の記憶や他者の死の
経験を、また、まだ生まれていない人々に対する展望を、未来
を見据えるまなざしを中心においておかなければならない。そ
うすることができて初めて、他者と深く関わることができる様
になる。それは、多くの死者で他者の知恵や遺伝子を引き継い
でいくことだけではなく、中心に死者と未生者(まだ生まれて
いないが、いつか生まれるであろう人々のこと)をおくことに
より、先祖や子孫とのつながりだけではなく、今生きている人
々との共同性が図れる。すなわち、死の共同性。
 しかし、現代人は特に、その中心に社会性というものをおき
、自己を微細に観ることを拒否し、その中心にある社会性で仮
装をして自己を生きている。そして他者との本質的な共同性を
見失っている。
 時間的に自己を考察してみると、自己は自己の世界を、膨張
して、世界を広く意識し、自己に映る他者も含み込んでしまう
時もあれば、自己の世界を収縮しきり、自己の内側だけに眼を
向ける時もある、時ともに、人はその膨張と収縮を反復させる
。膨張すればするほど、多くの他者を巻き込んで、他者のすべ
てを理解したと思い込むこともあろうが、それは幻想である。
自己を知りきれない事以上に、他者を知りきることは不可能で
ある。また、収縮すればするほど、自己は小さくなり、自己は
無くなっていき=(亡くなっていき)、先ほども出た、死者と
未生者の世界、生命論的にいうと、生命の根源もしくは生命の
根拠ともいうべきものに繋がっていく。それが生命論でいう、
他者との共同性。
 現代の問題は、それは資本主義の宿命なのかもしれませんが
、予定調和的な働き方で、会社員であれば、一週間から三か月
くらいの期間をを現在とすることにより、自己を固定させてし
まっている。すなわち、自己の伸縮運動を機能不全にしてしま
っている。それでは本来の多数の他者との共同性も実感できず
、また、世界観も広げることができないでいる。
 
 自己規定性
 社会性を中心に偽装し、時間的にも空間的にも、自己を膨張
する。本当は、自己は多重化しているにも関わらず、自己規定
を強く働かせて、一個の個人に固められている。本来は、多重
化されつつ緩く自己はまとまりと動きをもっている。そうする
ことで、自己は膨張と収縮運動を繰り返すことができる。その
ことでまた、多様な他者と多様な関係を築くことができる様に
なる。そのようにしてまた、重なり続け、他者に対する本当の
理解を得ることができる様になる。
 ここで江戸時代の【連】をモデルにして、自己と他者の関係
を考えてみたい。連とは、私の理解でいうと、一人の個人が複
数の名を持ち、またその名ごとの職を持ち、多様な関わり(自
分自身にも、また、他者との関係にしても)において、創発性
を発揮し、次々と多くのこと・ひとと関わりあっていくことで
ある。そこでは、自己規定性も緩く、また、他者の部分を吸収
し、自己を発散させていくことになる。その多収性並びに、自
由さを積極的にとらえたいのである。他者と関わり、その他者
を自己言及化して自己に重ねあうことで、また新たな他者との
関わりを持つ準備を整えることができる様になる。しかも、他
者を支配することなく、支配されることもなく。このような関
係性を現代人は見失っているのではないか。社会性という欺瞞
で覆われてしまい。本来の関係性を構築できていないのではな
いかと思われます。
 これは連歌でも現れています。前の句をつないでいくのです
が、その時大事なことが、前の句を読んだ人の句の世界観に継
かず離れず、異なる世界観ではあるが、その世界観を超えすぎ
ない。一般的にはそれを36句重ねていき、壮大な世界観を創
っていく。ここで何をいいたいのかというと、一つ一つの句を
バラバラに見ても面白くないのに、それらが連なり、また重な
りあうと、なんともいえない世界観が構築される。それは応答
可能性であり純粋贈与の関係だと思います。すなわち、自分の
句を読んだ時点では、次の句に対していかなる思いも期待もせ
ず、見返りを求めず、他者に自分の句を丸投げする(贈与する
)ということです。他者と応答可能になっていく。
 最近良く聞くことですが、恋は見返りをお互いに求めあう関
係。愛は見返りを求めない関係。このことを援用して、愛と関
係性を考えてみると、愛とは先ほど見た純粋贈与の関係という
ことになります。感情の大小はあるでしょうが、愛とは要する
に応答可能性のことではないでしょうか。愛は不可能でもない
し、それほど大げさなことではなく、普段人々によってあらゆ
るところにあらゆる人々の間にある関係性なのです。その感情
が大きすぎて、それを相手が受け取ってくれなくて暴力に走る
ような事件が起こっていますが、その時点で既に、愛とはかけ
離れているということです。何も難しく考える必要もなく、普
通に人々が行っていること、応答可能であることが愛なのです
。愛を受け取り、また、返すことが愛なのではなく、会話が通
じているその時点で、愛なのです。
 
 具体化して考える
 多業種ワークシェアリング
 マルティプル・インテリジェンス

 政治と経済に応用する
 多重性自己を経済と政治に分離して考えてみると、以下の様
になります。政治的には統治をし易くするため、国家は自己を
固定化するか、なるべく小さくとどめておく、すなわち、固定
か、国家にとって適切なサイズに収縮させる。そのかわり、経
済的には、自己を肥大化させることを放任する。ゆえに、自己
は引き裂かれつつ一方で収縮され、もう一方で膨張させられる
。しかも、伸縮可能性を奪われながら。
 政治的自己固定化・収縮化されると、自己の権利がどんどん
侵されていき、しかもそのことを主張する気力も削がれてしま
う。その中で、政治的自己拡張やその伸縮可能性を望むべくも
ない。
 また、経済的自己膨張によって経済的に豊かになり、雇用を
創出させていくことは重要ですし、必要なことですが、また考
えなくてはいけない問題が浮上してきます。環境に関する懸念
です。経済が拡大思考一辺倒では、自然環境を徒に破壊し続け
るだけになってしまいます。

 どうすれば解決するか。
 健康問題との兼ね合い

 重なり

 自然
 自己のいない世界との重なり
 
 新たな社会性
 個人個人の中心に偽装されていた社会性ではなく、新たな多
重自己にとっての社会性を考えてみたいのです。その時中心は
もう死者や未生者という他者で埋まっているので、社会性はど
こに位置づけるべきなのかという問題が発生します。それはや
はり他者との関わりの間にしかないと思われます。他者を自己
言及的に含み込む時ではなく、吸収した後にそれをいわば自己
発散させる時に必要な社会性とは何か。中心に偽装された社会
性とは違い、多方面に同時に作用するのはもちろんのこと(意
識的にも無意識的にも)、次々と千変万化を起こしていき、そ
の変化はそれぞれの自己に伝播していく。個人に帰着していく
ことなく、関係性を連ねていく。関係性という責任を果たして
いきながら、多くの人を巻き込んでいく。そのような社会性。
自己規定性が弛み、自己内での多様化に留まらず、他者の多様
化も安定的に保障していく。