ブログ更新1210回目。

みなさんこんにちは。

 

1.節分の掛け声

 

 古来、中国の追儺(ついな)に源流を持つ豆まきの習慣が、2026年2月3日の、今日も行われた。

 

 一般的には、家の中に災難・厄災が入り込まぬよう豆を撒いて追い払う。

 

 一方、福・幸いを招き入れるという意味で、家の中に向けて豆を撒くという意味もある。

 

 災難・厄災を「鬼に見立てて、豆を撒いて追い払い」

福・幸いを「福の神に見立てて家の中に招き入れる」という意味から、「鬼は外・福は内」ということになった。

 

 先に、鬼を追い出してから、福の神を招き入れる順番なので、「鬼は外・福は内」という順番である。

 

2.「鬼は外・福は内」の真実

 

 実は、「鬼は外・福は内」には、更に深い意味がある

 

 人間の外界に触れる感覚器官の情報が集まって大脳に記憶される。それらの記憶が「自我」という心を形成する。

 

 人間には、生まれる前から、生まれて活動している今も、そして、死してのちも消えることのない永遠の命がある

 

 あなたを生かしている生命力は、あなたが生まれる前から、死んだ後も生き続けているのである。

 

 自我の心は、競争し喧嘩をする・妬み嫉みで狂おしくなる。

 その狂おしくなる自我の心が「鬼は外」の鬼なのである。

 

 あなたの中で生き続けている「永遠の命」こそ、「真実の福の神」である。

 

3.生命は裡(内)に宿る

 

 人間は、外なる世界に関心が向かっている。自我の争いばかりに夢中になっている。

 

 そのままでは、幸福であることはできない。

 

 不幸の原因である自我を追い出すために、「鬼は外」と叫ぶのである

 

 自我を追い出したら、自分の内部には永遠に生きる生命力が残る

 これが、真実の幸福をもたらすので「福は内」と、自らに向かって断言するのである

 

 したがって、「鬼は外」は、自分の自我に巣食う悪しき心を追い出す決意の宣言である。

 

 「福は内」は、自分の内部に「永遠に生きる生命を探し出すぞ」という決心の宣明である。

 

4.まとめ

 

 釈迦は、「仏性汝の裡にあり」と教えた。

イエス・キリストは、「神性汝の裡にあり」と断言した。

 

 仏性も神性も、文化的・言語的違いだけである。

 

真理を学ぶ上では、「神も仏もあなたの内部に宿るのだ!」ということになり、同じ教えである

 

 親が無知なるがゆえに、子もまた無知のまま人生を終わると、イエス・キリストは、嘆いている

 

豆を撒いて、歳の数だけ豆を食べるのは、今年限りまで。

 

 多くの人が「鬼は外・福は内」の真実義を、次世代につないだ、と祈る!

ブログ更新1209回目。

みなさんこんにちは。

 

 今年もよろしくお願いします。

皆様、それぞれに幸運のスタートをされたことでしょう。

 

 さて、明日1月15日は「小正月」。ちなみに元旦は「大正月」です。

 地域によっては、小豆正月・女正月などと様々な呼称があるようです。

 

 どんど焼きのお焚き上げや針供養なども行われことでしょう。 それぞれの習慣に従ってお楽しみください。これが、外なる世界です。

 

1.外なる世界の呪縛

 

 世界中に伝わる、新年各地の慣習・習慣や習わしは、親が無知なるがゆえに、子もまた無知のまま受け継いでいく

 

 子もまたその無知を受け継いだために、幾世代にもわたって慣習・習慣が連綿と人類知のように誤って伝えられている。

 

 伝えられている物事の慣習・習慣・因習などは、実は、「無知の塊」なのである。

 

 初詣に行った方は、なぜ初詣に行くのか自分に自問自答したことがあるでしょうか

 

 筆者は、自分の裡に(うちに)創造主=神が宿っていることを自覚したときから、初詣には行っていない

 

2.人間には神が宿る

 

 創造主=神が人間をお創りになるとき、神ご自身を人間という肉体に宿らせたのである。

 

 一人残らず、例外なく、生まれてくる人間には、神が宿っている。それは、今も続いているのだ!

 

 であるならば、神社・仏閣・教会堂などに行って、外なる神を拝む必要はあるのだろうか?

 

 自分の裡に宿る「創造主=神という神の元締め」を拝めば、全てが済んでしまう

 

 わざわざ混雑する雑踏の中、寒さをこらえて、時間をかけて、お賽銭を投げに行くのは勿体ない。

 

 今風に言えば、初詣は「コスパ・タイパ」が、最低である。

 

 それより、「ご自分の裡にまします神にお賽銭を差し上げたほうが、人としてのあなたも喜ぶのではないだろうか!

 

3.人間の手を見よ

 

 あなたが、神仏を拝むとき、あなたは両手を合わせる。

 

 その時、あなたの両手の親指は、あなた自身の方向を向いている。例外は無い。

 

 なぜなら、創造主=神が人間の肉体をデザインしたとき、自分の裡に、「親たる神がいることを示すため」、親指をあなた自身に向くようにしたのである

 

 外に神がいるというなら、創造主=神が人間をデザインするとき、親指が外側に向くようにデザインしたはずである。

 

 人間自身が、自分の肉体の形について、深く研究していない証拠である。

 

4.まとめ

 

 四足動物は、前足が地についているので、拝む行為が出来ない。

 

 昆虫のハエは、前足はすり合わせるが、後ろ足もまたすり合わせるので、拝む行為とはいえない。

 

 神を拝むことが出来るのは、「神に似せて創造された人間」のみである

 

多くの人が、自分の裡なる神を拝むようになった、と祈る

ブログ更新1208回目。

みなさんこんにちは。

 

1.愛情は愛の表現

 

 年末年始を故郷で過ごす人も多いと思う。

 

 正月ともなれば、故郷には、父母や親せきを訪ねて、一族郎党が集まる機会も多くなる。

 

 そこには、親子や親せきという心のつながりが感じられ、日常の人間関係とは異次元の親密感が漂う。

 

 成人式を機会に、同窓会も開かれたりすると、旧交を温めると称して、きわめて濃い人間意識の交流が広がる。

 

 これらの事象は、全て人間の心の作用である。

 

2.心の成り立ち

 

 神の愛は、神の愛から出て人間に宿った瞬間に、愛情となり、心というものを形成してしまう。

 

 神は、人間が悟りに至るまでの人生の時間中、肉体を保護し・維持するために、五感の感覚を取り付けた

 

 その五感の感覚の蓄積は、大脳に集約されるこれに愛情が合体して、いわゆる「自我」を形成する。

 

 自我が、自己防衛的に働くのは、肉体を守るための自然な動きである。言い訳もその一つである。

 

 人間は、自分を守りつつ、他人と関係性を築いていかなければ、社会で生きていけない

 ここに心理学が成立する。

 

 愛情の情という文字は、「心(りっしんべん)+青い(未熟)」という文字で、心が未熟であるという意味になる

 

 神の完全なる愛とは、異なる意味=「未熟な愛」が「愛情」という言葉には含まれている

 

3.神の愛

 

 神の愛は、差別が無い。差別がないから争いが無い。

争いがないから完全調和である。

 

 人間は、人生という期間の時間中に「神の愛」を知ることが、人生の究極の目的である。

 

 「神の愛」を知り・深く理解したものは、天上界に昇天することが可能である

 

 天上界は、神の愛で満たされた世界だからである。

 

 人間意識は、神意識ではない。ゆえに、人間意識のまま死んでも、天上界には還ることができない

 

 「もう、金輪際、人間世界はご免だよ!」という決心がついた方は、私の許に来るが良い

 

4.まとめ

 

 私の許に来ることが出来れば、「神の愛」を直伝しよう

 

 なぜなら、神は愛であり、神の愛は生命である

 

 神・愛・生命は「生もの」だから、直に接して話を聴き・納得しなければ、伝わらないのである。

 

 いくら、電子媒体が発達しても、神の愛・生命の神髄を本当に伝えるには、「直接の教え」しか手段がないのである。

 

多くの人が、私の許に話を聴きに集まった、と祈る