ユングスタディ報告
9月5日【第17回】
 
 ユング「禅の瞑想 ─鈴木大拙によせて─」(1939)を読み進めるスタディの第二回です。
 
 ユングは禅における「悟り」について、「自我という形態に限定されている意識が、自我性をもたない本来的自己へと突破すること」、「自我が仏性(神的な普遍性)を持っている本来的自己を通じて解放されること」であると述べます。心の重心が、意識領域の中心である自我ではなく、心全体の中心である「自己」へと移行することは、これまで繰り返し見てきた通り、宗教的修行の本質的な目的としてユングは捉えています。こうした理解によって、ユングは悟り体験を、ユング心理学の枠組みと接合させていくことになります。
 
 続けてユングは「悟り」を、「さしあたり心理学的問題、経験可能な一つの意識変化として取り扱う」、「ここでは、事実性(それが客観的事実であるかどうか)ではなく、魂の現実性(魂の事実)、悟りにおける心的な出来事が問題である」とします。「悟った」とする当人が本当に「悟って」いるのかどうかを客観的に判断することは不可能ですが、少なくとも、本人が「悟った」としている何らかの心理的体験はそこに存在している。ユングはあくまでも心理学者として、その「悟った」体験がどのような心理的体験であるのかを問います。つまり、「事実性」Tatsächlichkeit 〔それが客観的事実であるかどうかということ〕が問題なのではなく、「魂の現実性」seelishe Wirklichkeit、つまり「悟り」といわれている過程における心的な出来事が問題となります。
  
 「悟り体験」のような、宗教的修行から生まれた意識状態では、外的な事物が意識を全く触発しない、とユングは述べます。これは、今までも繰り返し見てきた通り、外界の事物に投影されていた無意識駅内容が、意識化されて自身に引き戻されることで、事物が帯びていた無識的情動性が喚起していない心理状態です。外界への投影が引き戻されるとともに、自身の中に自我意識とは異なる無意識的内容が存在することが認められるようになり、これに伴って心の重心が自我から、意識と無意識の双方を含む心全体の中心「自己」へと移行します。自我意識は、自身が主体となるのではなく自己の働きの元で動くようになる、つまり意識それ自体は「空」になり、非我の作用に向かって開かれ、本来的な「自己」が心の主体となります。

 そこでは、認識する主観の性質の本質的変容と、その変容に伴う人格の発展が起きています。今までとは何か別のものが見えるというのではなく、別なふうに見る、つまり認識の内容ではなく認識する働きの構造や態勢そのものが変化します。これが「悟り」体験の心理的側面であって、例えば禅の師匠が「お前は谷川のせせらぎが聞こえるか」と問う場合、日常的な意味で「聞く」のとは全く別の「聞くこと」を考えているわけです。
 
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 ユングは今回、西洋において禅の悟りに相当するような体験を述べている者として、中世の神秘主義者であるマイスター・エックハルト、ロイスブルークの二人の名前を挙げています。このうちのエックハルトについて、前回は別に時間を設けて検討をしていきました。
 
 マイスター・エックハル卜は、中世ドイツの神秘主義者です。パリ大学神学部の教授でしたが、晩年、査問委員会より異端の嫌疑をかけられ、その疎明のための旅の途中で亡くなりました。死後、教皇ヨハネス22世により公式に異端として断罪されています。エックハル卜によると、「魂の火花」と呼ばれる〈魂の根底〉において、神に触れることができた人間の霊魂は、神の子たるキリストとの神秘的合一をすることができます。
 
 ユングは繰り返しエックハルトについては言及していて、とくに『タイプ論』(1921) の中では、「マイスター・エックハルトにおける神概念の相対性」という一節を設け、かなりの分量を割いて論じています。
 それによれば、エックハルトは「神の中にこころ Seele があるのではなく、こころの中に神がいるのであれば幸いとなる」と述べていますが、これは心理学的には、神イメージに投影された無意識の心的内容が引き戻され、自身の内にこそ神的な存在があると意識化していることになります。上に述べた通り、投影の引き戻しと、自身の内に超越的な主体(自己)を認めることは、ユングの「悟り」理解に相当する心理過程です。
 
 教会を通して神に触れるのではなく、個人の魂の内で神に触れるという考え方は、やはりカトリックの立場からは異端とされるものでしょう。ユングは、西洋における一般的なキリスト教理解ではなく、異端とされた思想の中にこそ、東洋の思想と共通するものがあると考えています。
 
 エックハルトには鈴木大拙も注目して詳しく論じており、彼の禅観を理解する上で重要です。大拙は、西洋人が禅を理解することは可能かという問いに対し、「西洋にもエックハルトがいるのだから、西洋人が禅を理解することことは可能だろう」という旨のことを述べていました。禅についてのユングと大拙の考えを理解する上では、エックハルトという重要な参照点があることになります。
 図は、エックハルトの肖像です。