象徴

フロイト(Freud)とユングの理論上の決裂には、「象徴」が何を意味するのか、という問題がかかわっている。すなわち。象徴の概念、その意図しない目的、そして内容である。

 

 ユングは、概念的違いを次のように説明した。

「背後にある無意識への鍵を提供する意識内容を、フロイトは誤って象徴と呼んだ。しかし、これは真の象徴ではない。フロイト理論によると、それは閾下プロセスの記号ないし徴候の役割をもつにすぎないからである。真の象徴は、本質的にこれと異なり、今のところ他の方法、あるいは別のより良い方法では示せない直感的観念だと理解すべきである。(CW15,para.105)

 

これ以前に、ユングは象徴の定義を次のように定めた。「象徴は、選ばれた表現が、あまり知られていない事実を可能な限り良く描写する、あるいは定式化する、という事態を前提とする。この未知の事実は、にもかかわらず、存在すると知られ、あるいは仮定されている」(CW6,prara.814.).

 

  明確にフロイトを念頭に置いてではないが、別のところで、抑圧された性の表現や他の明確な内容より、象徴の挑戦的で微妙な表現を吟味、鑑賞する力のうほうが自分にとってはるかに重要だ、とユングは述べた。明らかに象徴的と思われる芸術作品について、ユングはは次のように述べている。

 

「作品の肥沃な言語は、言葉通り以上のものを自分は意味するのだ、とわれわれに呼びかける。われわれは、すぐさまその象徴を突きとめられるが、その意味を完全に満足いくまで謎解けはしないだろう。象徴は、われわれの思考と感情に永久に挑戦しつづける。恐らくそういう理由で、象徴的作品がこれほど刺激的で、強力に我々の心をつかみ、しかも純粋に美的な楽しみを与えてくれることが少なくないのである」。(CW15,para.119)

 

 象徴形成の問題をめぐる概念的論議は、ユングとフロイトの決別以後も続いた。また、分析心理学内では現在にも続く。分析心理学の学全体としてみると、象徴の概念化、目的、内容などに関する広範囲にわたった理論的理解と実践が証明されている。しかし、広くいきわたったイメージをほとんど文字通りに解釈し、象徴体系をはっきりと性的にのみ捉えようとする場合も、象徴をその内容と混同せず、したがって、そこに知的、説明的、寓意的機能を想定せず、むしろこころの仲介者的、移行的役割を想定するならば、ユングの定義に合致した意味の広がりと多様性を、そこに見出すことも可能である。

 

 象徴の究極的意図に関して、ユングは、象徴は一定の働きをなす目標をもつが、それを言語化するのは困難だと考えた。象徴は類比的に表れる。象徴プロセスはイメージにおける、イメージの経験である。その展開は、エナンチオドロミアの法則に従い(すなわち、所与の立場が、ついにはその対極の方向に動く原理、対立するものの項参照)、補償(すなわち、意識態度が、無意識内からの動きによって均衡を保つこと)が働く証拠を提供する。「互いに補償的関係に立つ定立、反定立が同じ程度に新たな内容を布置し、無意識の活動から今やその新しいものが出現する。それは、したがって、対立するものを統一しうる中間の場を形成する」(CW6,para.825)。象徴プロセスは、個人が行き詰まり、「宙づり」になり、自分の目的追及が強制的に立ち止まっていると感じるところから始まり、明るく照らされ、「見通し」がきき、変容した道筋を前進できるようになって終わる。

 

 対立するものを統一するものは、両側面の性質をもち、いずれの観点からも簡単に評価を下せる。しかし、いずれか一方の立場をとると、それは、単にその対極を再度主張することになるだけである。その象徴自体が、ここでの助けとなる。なぜなら象徴は、論理ではなく、こころの状況をそこに包みこもからである。その性質は逆説的で、論理の中には存在しない第三の要素ないし立場を代表する。この第三の要素が、対立する要素の総合を可能にする視点を提供する。この視点に直面すると、自我は自由に内省と選択を行えるようになる。

 

 したがって、象徴は、代理の観点でも、補償そのものでもない。象徴はわれわれの注意を別の立場に向け、それが適切に理解されると、現存の人格を増大し、葛藤も解消される(超越機能)。それゆえ、全体性の象徴は、疑いなく存在するが、いわゆる象徴とは別の次元の象徴である。あらゆる象徴は、曲がりなりにも、全体性の象徴となる可能性がある(自己)。

 

 象徴は、魅惑的、映像的表現である(ヴィジョン、ヌミノース)。それは、こころの現実を、曖昧に、メタファー的に、謎めいて描出する。その内容、すなわち象徴の意味は、ほとんど不明確である。そのかわり、象徴は、個別的で独自の表現を行い、同時に普遍的イメージも分有する。象徴に取り組むことで(すなわち、それを内省し、そこに関与することで)、象徴を、われわれの生をコントロールし、秩序づけ、意味を与えるイメージの諸側面として理解できる。その源泉は、したがって、元型そのものまでたどりうる。元型は、象徴によって、より十全な表現の道を得ることになる(元型)。

 

 象徴は、意識の抱える問題に応じる無意識の産物である。それゆえ、分析心理学者は次のような表現をよく用いる。別々のこころの要素をつなぎ集める「統一する象徴」、個人の意識状況と密接に絡まった「生きた象徴」、自己の実現に属し、そこに集斂する「全体性の象徴」などである(マンダラ)。象徴は、すでに馴染みのあることがらをめぐる寓意とは異なり、たましいの中の非常に生命力のあることがらを表す。すなわち、「心を揺り動かす」ともいえよう。

 

 ある個人の分析に現れる象徴内容が、別の分析の象徴内容と似ているとよくみなされるが、これは当たらない。規則的で、繰り返し現れるこころのパターンは、多種多様のイメージや象徴で表現される。こういった臨床的応用とは別に、歴史的、文化的、あるいは一般的な心理学的文脈から適切に解釈することも可能である。

 

ユング心理学辞典p74~76 著者:アンドリュー・サミュエルズ

 

注意

太字は同辞典に詳しく説明されています。