ユングスタディ報告

「ユングの東洋思想論を読む」第14回 チベットの大いなる解脱の書(5)

5月9日【第14回】

 引き続き、ユング「チベットの大いなる解脱の書」の第二部「テキストへの注解」を読み進めていきました。実際の経典の内容にユングの注解が加えられていく箇所です。

 今回はまず、「基本的な人格感情 Persönlichkeitgefühl を、ほとんど意識にのぼることのない心の領域まで移すことは、一種の救済の効果をもたらす」というユングの記述を取り上げる上で、ユングの別論文「パーソナリティについて」 Vom Werden der Persönlichkeit(1932/34)を参照しました(邦訳:C.G. ユング『パーソナリティの発達』横山博監訳・大塚紳一郎訳、みすず書房、2024.3 所収)。

 また、すでにスタディでも取り上げた『分析心理学セミナー』(1925)所収の、「個人」の心の構造に関わる図なども参照しました。

 その中で見えてくることは、ユング心理学における三つの用語、「自己」Selbst, self、「人格」 Persönlichkeit, personality、「個性」Individualität, individuality が、ニュアンスの違いはあれど、ほぼ同じ事柄を示しているのではないかということです。

 これらの用語は全て、人間の本質の全体性を発展させることに関連しています。意識が無意識について気づきを持ち、心の重心が意識から、意識と無意識との間・心全体の中心に移ることで、その人の持つ様々な可能性が十分に展開し、その人の全体としての心の姿が現れてきます。この過程が「自己実現」「人格の生成」「個性化」と様々に表現されています。

 そしてさらに重要なことは、ユングがこの「自己・人格・個性」が顕わになる過程を、東洋思想における様々な概念と重ね合わせて理解していることです。実際、ユングは「パーソナリティについて」の最後を、こう締めくくります。

 「…私たちのなかにある未発見の道は心の生き物のようなものなのです。中国の古典的哲学はそれを「道(タオ)」と呼び、目的地に向かって頑として進んでいく水の流れにたとえています。道のなかにあるということは完全性、全体性、成就した宿命、出発地と目的地、物事に最初から備わった現存在性の完全な実現を意味します。パーソナリティとは道(タオ)なのです。」(p.217)

 「道(タオ)」にしても、今回のテキストにある「一なる心」との関係にしても、ユングの東洋思想理解の核となるのは、超越機能を通して現れる心の全体性との並行関係にあります。

 次にユングは、経典が「一なる心」について語る際、多様な表現がなされていることを取り上げ、それはよく知られない不明瞭なものの本性をあらわすためである、とします。これはユングの言う集合的無意識の概念のあり方にも当てはまることで、ここでも「一なる心」と「集合的無意識」との対応関係が確認できます。

 「自己救済のヨーガ」の実修は、忘れられた記憶を意識へと再び統合することで、無意識の補償作用としての、集合的無意識における元型の自然発生的な再覚醒を促し、これが回復の効果を生み出すことになります。経典における、「一なる心」を理解することが涅槃の状態に至る道である、という記述は、この心理学的理解に対応しています。

 またユングは、「心の無時間性は、集合的無意識の経験に固有な性質である」とも述べます。無意識の内部では、過去・現在・未来がまじりあっていますが、こうした無意識の性質の現れとして、ここではいわゆる予知夢の例が挙げられます。

 ユングは後に、論文「心の本質の理論的考察」(1954) において、時間・空間は意識における枠づけであり、意識水準の低下とともに時空間軸にとらわれない現象が起きるとしています。時間と空間は心の中では相対的であって、主体が無意識状態の中に移されると共時的現象が起きるが、無意識内容が意識の中に入り込むと共時的な現れ方はしなくなる。この共時性現象によって、元型が心的でない側面を持つことが示されるとユングは考えます。

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 ユングは、「よく知られない不明瞭なものの本性をあらわすため」に多様な表現がなされる事例として、西洋錬金術における「賢者の石」を例として挙げます。以下は平凡社『改訂新版 世界大百科事典』による説明です。

 賢者の石(けんじゃのいし)

 Lapis philosophorum[ラテン]

 〈哲学者の石〉ともいう。賢者・哲学者はともに錬金術師の意。錬金作業の最終段階で析出すべき概して赤色粉末状の物質で,卑金属を金に変え,金の量を無限に増やすなどの変成能力をもつとされた。また人間を若返らせ病気を癒す万能薬ともみなされた。具体的物質というより,自然の根底に潜む精髄を凝縮した比喩的実体である。原物質 prima materia が混沌状態で含む四大(土,水,火,空気)を,〈賢者の石〉は精錬,純化した形で含んでいる。したがってそれは大宇宙に対する小宇宙であり,万物の生命を蔵する種子として,根源的な作用力をもつ。物質と肉体と魂に同時に働きかけてこれを治癒し向上させる救済力の象徴として,種々の図像で表された。

 図は、16世紀の錬金術書であるトリスモジン『太陽の色彩』からのものです。(アレクサンダー・ローブ『錬金術と神秘主義』TASCHEN 日本語版、2006、p.86-87 より)

 ここでは「賢者の石」が太陽として描かれています。左の黒い太陽は、「賢者の石」がまだ様々な物質の中に紛れ込んでいて見出されていないことを表します。これが錬成によって取り出されると、右のように、赤く輝く太陽としての「賢者の石」として表されます。これはユング心理学の文脈では、無意識になっていた心の諸要素を意識化し、まとめ上げていく中で現れてくる、心の全体性の中心「自己」に相当します。この「自己」の実現こそが、錬金術の「賢者の石」では変成能力や万能薬として表現されているような、心理的変化と癒しの効果を持っているわけです。

 「賢者の石」の象徴としては、他にも、火の中で錬成されることを表すサラマンダー(火蜥蜴)や、復活したキリストなどが挙げられます。「賢者の石」とキリストとのアナロジーについては、ユング『心理学と錬金術』(1944) の中で、まるまる一章が割かれて論じられています。

 ちなみに、映画「ハリー・ポッターと賢者の石」では、賢者の石は赤い宝石として登場します。西洋錬金術では「赤」という色が、錬成されたものを意味します。

 

 

黒い太陽は外側の太陽であり、 その 「闇の」 焼き尽くす火は、すべ てのものに腐敗をも たらす。 アラビア錬金では、 「太陽の黒さ、あるいはその影」は、 金の不純性を意味す る一般的な象徴であ り、それは洗い清めなければならないものである。


S・トリスモジン、
Splendor solis
(太陽の光彩)、
London、 16世紀


賢者の石の象徴、 すな わち赤い翼を持った 獅子としての内側の太陽。
S・トリスモジン、 Splendor solis
(太陽の光彩) London、 16世紀