遅くなりましたが、ユングスタディ報告です。

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「ユングの東洋思想論を読む」第13回 チベットの大いなる解脱の書(4)

4月4日【第13回】

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 引き続き、ユング「チベットの大いなる解脱の書」を読み進めていきました。前回で第一部「東洋と西洋の思考様式の違い」を読み終えて、今回からは第二部「テキストへの注解」に入りました。ここからは、実際の経典の内容にユングの注解が加えられていきます。

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 まずユングは、宗教上の聖典を客観的かつ科学的に扱うことによって、その価値が損なわれる場合があることを指摘します。これに対して、自分はこの東洋のテキスト「チベットの大いなる解脱の書」の価値を認めるからこそ、それを「拡充」することを意図している、と述べます。

 拡充(増幅)amplifizieren, amplify というのはユングによる無意識的イメージの解釈方法の一つで、無意識内容の持つ意味を意識にもわかるように増幅させる手法です。特定のイメージに対し、それに類似した様々なイメージを神話や文化の中から取り出して付き合わせていき、それらの奥底に共通する元型的なるものの現れを明らかにしていくとともに、その無意識の意味を意識的に経験するというものです。 異質と思われるテキストを、自分たちが心理学的に了解できるような内容と突き合わせていくことで、その意味と価値とがわかるようにする。それがユングの意図するところです。

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 経典「チベットの大いなる解脱の書」では、「一なる心」を理解することが、輪廻(欲望や執着による業によって、生ある者が生死を繰り返す迷いの状態)から逃れて、涅槃(煩悩の火が消された状態の安らぎ、解脱・悟りの境地)の状態に至る道であることが説かれます。ユングによれば、この「一なる心」についての経典の描写は、まさにユングの考える「無意識」の特徴を指しているものと受け取れます。輪廻(サンサーラ)と涅槃(ニルヴァーナ)の結びつきの母体となっているのが「一なる心」であり、根源的な無意識に相当します。

 

 これまで何度も見てきた通り、心理学的な観点からすると、私たちがなんらかの対象を欲望したり執着したりするのは、私たちの無意識的な投影が対象に意味と情動とを与えていることによります。この無意識の過程を意識化した時、対象への投影が引き戻されて、対象にかき乱されない平穏な心理状態に至りますが、それこそが心理学的観点から見た「涅槃」です。これと同時に、意識と無意識の全体を含んだ「心」の本当の中心である「自己 Selbst, self」が顕わになって、心のあり方の重心が意識から自己へと移行します。自己のもとに様々な心の要素が統合されてゆくことで、いわゆる真の意味での「自己実現」がなされます。

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 人が自分自身の無意識の諸内容に思念を集中すればするほど、それらは強いエネルギーを帯びることになります。それによって、「無意識の内容は、内から照らされるかのように活力を与えられ、一種の実在のごときものに変容する」ことになります。それだけの活性化があって初めて、無意識は私たちに大きな構えの変化を引き起こすわけですが、ユングはこうした方法を、ここで「能動的想像」aktiv Imagination, active imaginetion と呼びます。

 

 「能動的想像」とはユング派の臨床的イメージ技法です。特定のテーマに精神を集中させ、そこから現れるファンタジーを展開するがままにさせて、現れてきたイメージを相手に自我が直接的な接触を持とうとする方法で、夢分析のような passive(受動的)な技法と対比されます。ユングは東洋の瞑想法について、この能動的想像と同様の方法を用いていると見ています。

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 「一なる心」を理解しないとき、すなわち無意識との繋がりが失われているとき、人は無意識的な情動によって迷い苦しむことになる。「一なる心」を理解することとは、つまるところ、無意識を意識化して対象から投影を引き戻し、対象からの影響力から自由になることであり、他方では、無意識を活性化させることで無意識の存在を現実的なものとして捉え、そのことで意識と無意識との全体の中心である「自己」に心の重心を移して「自己実現」をすることでもあります。

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 経典「チベットの大いなる解脱の書」には、「一なる心を知らないために、自らを知ることのない世間の人びと」は、「三つの世界(三界)をあちらこちらとさまよい、存在の六つの場所(六道)の間で苦悩する」とあります。これらは仏教における、苦しみのあり方についてのイマジネーションです。

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 左の絵は、チベットの伝統的な六道輪廻図で、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPよりの引用です。

 六道(六趣)とは、衆生が自ら作った業によって生死を繰り返す六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のことです。地獄道は、悪行を積んだものが堕ちて責苦を受ける地下世界で、最も苦しみの多い状態です。餓鬼道は、嫉妬深さ・物惜み・貪りをしたものが赴くところで、飲食物を得られない飢餓状態にあります。畜生道は動物の境涯で、人間に虐げられ、互いに殺傷し合う苦を受けています。修羅(阿修羅)道とは、血気盛んで闘争を好むインドのアシュラ神に由来する言葉で、争いの止まない世界、人道は人の住む世界です。天道は神々や天人の住む世界ですが、そこもまた輪廻から逃れているわけではありません。神々や天人が、迷いの中で他の世界に転生することもあるわけです。

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 右の写真は、いわゆる三界萬霊塔と呼ばれるものの一つで、日本石仏協会編『日本石仏図典』(国書刊行会、1986.8)からです。

 三界(さんがい)は、輪廻する衆生が住む世界の全体のことで、欲界、色界、無色界から成ります。欲界は二つの欲望(淫欲・食欲)を持つものが住むところで、六道を含みます。色界には物質的制約は残るが欲から離れたものが住み、無色界は高度に精神的で禅定を修めたものの境域です。それらに住む衆生たち全ての救いを祈願して建立されるのが三界萬霊塔です。

 

 ちなみに法華経にある「三界火宅」は、迷いと苦しみのこれらの境域を、燃え盛る家にたとえたもので、檀一雄の小説『火宅の人』のタイトルはここから来ています。また「三界に家なし」とは、この境域が安住の地ではないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になりました。

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※ 仏教用語についての解説は、主に『岩波仏教辞典・第三版』(岩波書店、2024)を参照しています。