ユングスタディ報告

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「ユングの東洋思想論を読む」第12回 チベットの大いなる解脱の書(3)

3月7日【第12回】

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 引き続き、ユング「チベットの大いなる解脱の書」を読み進めていきました。テキスト前半「東洋と西洋の思考様式の違い」の終盤部分が今回の範囲です。

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 外向的な西洋においては、いわゆる真理というものは外界の状況と合致していなければならず、外的な事実によって検証されないものは「単に主観的なもの」にすぎないとされます。しかし、人の認識における主観的要因というものは、「単に主観的なもの」といった個人的主観主義を必ずしも意味しません。

 人間の心は、その心の機能が持つ不変な構造形式を通して、諸事実を同化していきます。人間の認識は客観的に存在する心の構造形式(いわゆる元型)によって形づくられているので、主観的要因を信頼する人、つまり内向的な東洋の立場では、この心的法則の実在性をよりどころにして、自然な形で「たましい Psyche」から生じてくる豊かな真理を手に入れます。

 つまるところ西洋は、外界の事象を扱う自然科学や近代的技術においては発達しているものの、内面の精神的洞察と心理学的技術に関しては、東洋の方が精緻なものがある、とユングは捉えています。

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 西洋の外向的見地からいえば、人間が自らの内部に自己救済能力をもっているという主張は、はなはだしく神をけがす考え方です。一般的なキリスト教の考え方では、神は外にある超越的な存在ですが、人間はちっぽけで非力な存在にすぎず、神の恩寵によって救われるしかないとされているからです。

 しかしながらユングの心理学では、この自己救済能力に相当するものを人間心理の内部に認めます。つまり、無意識の内部で一定の過程が進行し、象徴の力によって意識の態度の偏向と混乱を補償する、という心理過程が存在します。ユングは自身の臨床実践の中で、無意識の補償作用が分析技法によって意識化されると、意識の状態の高度な変容をひき起こすことに気づいていました。

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 ユングによれば、最初に現れてくる補償作用は、たいていの場合、異様で受け入れがたい内容が意識に侵入してくることであり、これは葛藤の状態を引き起こします。こうした内容を排除することなく、衝突を受け入れて耐えていると、この行きづまりの状態が、無意識の諸要素を組み換えていく作用を引き起こします。意識的な未決定状態の持続が、無意識の中にある新しい補償的反応をひき起こして、思いもかけないやり方で別の問題が提起されたり、すでに提起されていた問題が思いがけないしかたで修正されたりする。こうした過程が、根本にある葛藤が満足できる形で解決するまで続きます。

 (ここは抽象的な話で分かりづらいかもしれませんが、例えば、仕事や生活の上での課題において未解決のジレンマが意識されており、解決法をずっと思いあぐねているとき、なにかの拍子に突然新しいアイデアが湧いてきて解決に至る、といった経験なら誰にでもあるかと思います。ここで重要なのは、課題の問題点を明確にして、それを意識し続けていることであって、それがなければ課題解決としてのアイデアも出てくることはありません。)

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 これら一連の心理的変容の過程と方法を、ユングは「超越的機能」die transzendente Funktion, transcendent function と呼びます。つまるところ、心に元来備わっているこの超越的機能こそが、ユング心理学の臨床的方法の基盤であるとともに、東洋的方法が依って立つところの自己救済能力そのものであるわけです。ユングは『黄金の華の秘密』注解の中でも、物事が生じてくるままにしておくことこそが「真の技術」である、と述べていました。

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 もっとも、無意識の補償作用は、自分の意志で呼びさますことのできないもの、「そういう作用がもしかしたら生まれてくるかもしれない」という可能性に頼るより外にないものです。意志で自由にコントロールできないことが、外向的な立場にとっては内的なものの排除と過小評価の根拠となっています。

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 ユングによれば、東洋のテキストが示している「心」とは、イメージを生み出す根源の心のことであり、心の構造形式(いわゆる元型)のすべてのマトリックス(ものを生み出す基盤となる母体)のことです。別の表現で言えば、全てが一体となった根源的な「一なる心」、この宇宙における「普遍的な心 the Universal Mind」です。

 西洋においてこれに相当する概念を探すとなると、これまで幾度かユングの別のテキストでも取り上げられてきた、いわゆる「宇宙魂 anima mundi」が思い起されます。これはプラトン『ティマイオス』を源とするイメージで、宇宙全体が一つの魂であり、宇宙のどこにでも遍在する魂の観念です。

 無意識とはイメージを生み出す「心」として創造的なものです。無意識の示す形態や構造は、不変なので永遠なものに見えます。また、意識における区別や差異に対して、無意識の諸内容はきわめて漠然として容易に混ざり合っています。ゆえに、無意識が意識に認知される際には、創造的で無定形、無時間的、一体性といった独特な印象を与えますが、これが「一なる心」というイメージで表現されていることになります。

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 前々回から指摘されているように、こうした宇宙的な心(普遍的な無意識)との根源的な結びつきから引き離されて、単なる個人的存在になってしまっているのが現代の西洋人のあり方です。そしてユングは、超越的機能こそが、西洋人が結びつきを失ってしまった母体としての「心」の領域へ、改めて接近する道筋を指し示していると考えています。

 東洋が示す自己救済の可能性も、超越的機能から理解できるようになります。東洋のような内向的態度は、アクセントを外なる意識的世界から引き戻し、意識の背後の主観的要因におくものなので、必然的に無意識の特徴を示すさまざまな現れをよび出すことになるからです。

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 ユングによれば、東洋は意識の世界を過小評価し、西洋は一なる心の世界を過小評価しています。どちらも全体的な現実から切り離されているので、人為的で非人間的なものになりやすい。その一方で、一面性に徹するところがなければ、人間の精神は花開くことができないこともある。(すでに見てきたことですが、人生の前半期には自我の確立という課題があり、そのためにはある種の偏りが必要になります)

 この両者の心理学的な立場を理解し、それぞれが花開かせた精神的遺産を損なうことなく、それぞれの抱えた問題に対応すること、それがユングの東洋思想論の意図するところになります。

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 今回のテキスト内で、ユングは「現代の東洋は全く変わってしまった。それは、徹底的に、どうしようもないくらい、西洋からかき乱されてしまっている。ヨーロッパの戦争のやり方の最も効果的な方法まで、東洋はみごとに模倣しているのである」と述べています。

 ここでユングが念頭に置いているのは、おそらくは日本のことでしょう。このユングのテキストが出たのは1939年ですが、この2年前となる1937年に日中戦争が勃発しているからです。同年1939年の9月には第二次世界大戦も勃発していますが、テキスト内には宗教運動としてのナチズムへの言及も見られます。

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 写真左は、イグナティウス・ロヨラ『霊操』の邦訳書の表紙になります。今回のテキスト内では、「イグナティウス・ロヨラ『霊操』の未熟さをヨーガの精密な技術と比べれば」と、西洋の内観的技術の未発達さを言うために引き合いに出されています。ちょっと手厳しい扱いという印象ですが、実際のところユングは『霊操』についてかなり関心を持っており、ユングの他のテキスト内でも様々に言及しています。

 特に重要なのは、このユングのテキストが出た1939年、その年の6月からユングはチューリッヒ工科大学にて『霊操』についての連続セミナーを始めており、それは翌年の11月まで続いて全20回ほどにもなっています。このセミナーは、まさに第二次世界大戦勃発の数ヶ月前に始まり、大戦中ずっと続いていました。写真右は、そのユングの『霊操』連続セミナーを収めた英文書籍の表紙です。(現在のところ未邦訳)

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 内向的な技法に関するユングの思索は、同時代の出来事に対するユングなりの危機意識によるものと見ることができるように思います。