聖霊とは誰なのか、何なのか?
「このテキストに戻ると、著者が信条を三部形式としたのは、女性的な知恵の姿が消え、男性的な聖霊の姿に取って代わられたことと一致していることがわかります。

この二人の同一性は、特に、最初の知恵と現在の聖霊の両方が、芸術の救いの水と同一視されるという事実によって証明される。

聖霊の位格は、歴史の中でしばしば女性的な傾向を示してきた。

聖霊はキリストの母親とさえ解釈されたが、ユングが言うように、それは「単に古風な家族像、家父長制世界の三神論や多神教の中に聖霊を留めておくだけだっただろう」のである。

一方、教会の公式な伝統では、彼は父と子の間の生命の息吹と愛の息吹を表し、したがって「本質的に......仮象化された自然人」である。

父と子という自然な家族像に付け加えられた仮象化されたヌーメノン "である。

その形態において、彼は "父と子の関係から論理的に導き出すことができず、人間の内省の過程によって導入された観念としてのみ理解できるという点で、心理的に異質な存在である。" 彼は父と子に共通する生命であるだけでなく、人の中に子孫を残し、神の親としての業をもたらすために、子が残したパラクレート(助け主)でもある。

聖霊が人間に残された遺産であるように、逆に、聖霊の概念は人間によって生み出されたものであり、その人間の祖先の刻印があるのです。

したがって、三位一体は、神と人間の本質を理解する象徴として自らを開示する。"

ユングはさらに、「聖霊を母とするグノーシス主義の解釈は、マリアが神の誕生の道具であり、それゆえ人間として三位一体のドラマに関与したという点で、真理の核心を含んでいる」と述べている。したがって、神の母は、三位一体への人間の本質的な参加の象徴とみなすことができる。

この仮定を心理学的に正当化するのは、もともと無意識の自己顕示にその源を持つ思考が、意識の外部にある力の顕現であると考えられていたことにある。

原始人は考えるのではなく、考えが浮かんでくるのである。私たち自身、特に啓発的な考えを「影響」「ひらめき」などとして、今でも感じている。

判断や洞察の閃きが無意識の活動によって伝達される場合、それらはしばしば元型的な女性像、アニマや母なる愛に起因するとされる。

あたかもインスピレーションが母から、あるいは最愛の人である「femme inspiratrice」から来たかのように見えるのだ。

このことから、聖霊は中性的な呼称を女性的な呼称に変える傾向があるのだろう......。聖霊とロゴスはグノーシス派のソフィアの思想の中で融合し、また中世の自然哲学者のサピエンティアの中では、彼女について「In gremio matris sedet sapientia patris」(父の知恵は母の膝にある)と述べている。"
マリー・ルイーズ・フォン・フランツ、オーロラ・コンサーゲンス

 

Who or what is the Holy Spirit?
“Turning back to our text, we see that the author's preference for a ternary formulation of his credo coincides with the disappearance of the feminine figure of Wisdom and her replacement by the masculine hypostasis of the Holy Spirit.

The identity of the two is evidenced, among other things, by the fact that both first Wisdom and now the Holy Spirit are identified with the saving water of the art.

The hypostasis of the Holy Spirit has in the course of history often showed a tendency to become feminine.

He was even interpreted as the mother of Christ, but that, as Jung says, "would merely have kept him within the archaic family-picture, within the tritheism and polytheism of the patriarchal world."

On the other hand, in the official tradition of the Church he represents the breath of life and of love between Father and Son, and is thus "essentially..

an hypostatized noumenon tacked on to the natural family picture of father and son."

In that form he is “psychologically heterogeneous in that he cannot be logically derived from the father-son relationship and can only be understood as an idea introduced by a process of human reflection." Not only is he the life common to Father and Son, he is also the Paraclete whom the Son left behind him, to procreate in man and bring forth works of divine parentage.

Just as the Holy Ghost is a legacy left to man, so conversely, the concept of the Holy Ghost is something begotten by man and bears the stamp of its human progenitor..

The Trinity, therefore, discloses itself as a symbol that comprehends the essence of the divine and the human."

Jung goes on to say that the “Gnostic interpretation of the Holy Ghost as the Mother contains a core of truth in that Mary was the instrument of God's birth and so became involved in the trinitarian drama as a human being. The Mother of God can, therefore, be regarded as a symbol of mankind's essential participation in the Trinity.

The psychological justification for this assumption lies in the fact that thinking, which originally had its source in the self-revelation of the unconscious, was felt to be the manifestation of a power external to consciousness.

The primitive does not think; the thoughts come to him. We ourselves still feel certain particularly enlightening ideas as ‘influences,' ‘inspirations,' etc.

Where judgments and flashes of insight are transmitted by unconscious activity, they are often attributed to an archetypal feminine figure, the anima or mother-beloved.

It seems as if the inspiration came from the mother or from the beloved, the ‘femme inspiratrice.'

In view of this, the Holy Ghost would have a tendency to exchange his neuter designation for a feminine one... Holy Ghost and Logos merge in the Gnostic idea of Sophia, and again in the Sapientia of the medieval natural philosophers, who said of her: ‘In gremio matris sedet sapientia patris' (the wisdom of the father lies in the lap of the mother).”
Marie Louise von Franz, Aurora Consurgens

 

それが私たちに人生を完全に生きることを強いるものです、それはしばしば悲劇的であると同時に英雄的な冒険です。

エラーと罪がなければ、恵みの経験はありません。つまり、神と人の結びつきはありません。

無条件に生きる完全な人生は聖霊の働きです。

それは私たちをすべての危険と敗北に、そして知識の光、つまり最大の意識に導きます。

これは、それぞれの存在がその完全性を達成することを望んでいる、被造物と被造物の目的です。

誠にありがとうございます。

〜Carl Jung


継続的で進歩的な神の化身を意味します。

したがって、人間は受け取られ、神のドラマに統合されます。

彼はその中で決定的な役割を果たす運命にあるようです。それが彼が聖霊を受けなければならない理由です。

聖霊を受けることは、父の両義的な性質が認識されるまで起こらない非常に革命的な事実であると考えています。

キリストが彼を受け入れたように私たち自身の個人の人生を受け入れない限り、私たちは聖霊を受けることができません。したがって、はりつけに代表される神の反対の対立を経験する運命にある「神の息子」になります。
〜Carl Jung、

御子のレベルでは、善悪の問題に対する答えはありません。反対の不治の隔たりしかありません。。
。。私には、聖霊の任務であり、人間の魂の特別な発達を通して人間の個人の正反対を和解させ再会させる責任があるようです。〜Carl Jung、Symbolic Life、Page CW 18、pars。1552f。

 

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旧約聖書のルツ記は短い物語で読みやすいです。しかしその内容は、当時の偏った意識(ベツレヘムの飢饉→文化の病)に対しての(父性原理に対しての母性原理、ロゴス原理に対してのエロス原理、自我に対しての自己)補償の様に思います。そこからやがて国を統一するダビデが生まれ、その系図にキリストがあります。現在ユダヤ教の3大祭り、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りがあり七週の祭り(ペンテコステ)でルツ記が朗読されます。(それだけにルツ記は国、民族、時代を超えて普遍的な意味をもっていると思います。).........やがて七週祭はシナイにおける律法授与を記念する祭りに発展した。)

 

 

新共同訳】 コリントの信徒への手紙二 ◆新しい契約の奉仕者(3:1~18)

3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊(聖霊)によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

1:ヨハネによる福音書/ 03章 34節
神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
口語訳


2:ヨハネによる福音書/ 06章 63節
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 

【新共同訳】
ヘブル
4:12 神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

【新共同訳】
一ヨハ

2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
 2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。

 

【新共同訳】
一ヨハ

 2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

 

【新共同訳】
一コリント
3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
 3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
 3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
 3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。