モーセと燃える柴(出エジプト記3章)

 

ユングは、教義,信仰箇条と区別された宗教のメルクマールを、ヌミノース経験があるかないかにおいていた。   

(ユング心理学辞典p72,天使と格闘するヤコブ)

 

そして、「宗教」という言葉は、ヌミノースの経験によって変化した意識に特有の態度を指すと言えるかもしれない。
カール・ユング

"We might say, then, that the term 'religion' designates the attitude peculiar to a consciousness which has been changed by experience of the numinosum."
Carl Jung

 

人間の中にある宗教的衝動:

https://jungiancenter.org/the-religious-impulse-in-the-human-being/

 

神話(宗教)を理解するため最も重要なことの一つです。

 

『聖なるもの』 著者のルドルフ・オットー
下記に要約されています。
ttps://shins2m.hatenablog.com/entry/20160506/p1

3人の翻訳者がおります。新しい方が読みやすいようです。

 山谷 省吾 1968年
 華園 聰麿 2005年
久松 英二 2010年

 

「こころの最終講義」河合隼雄 p17
元型がコンステレートしている。
デモニィク、悪魔的な感じ、神聖な感じ、魅力、心が揺さぶられる。抵抗しがたい何かに引きつけられる。「ヌミノーゼ」

 

「ヨブへの答え」C.Gユング著(みすず書房)  p3~ 好意的な読者へ より。          

我汝のために悲しむ、我が兄弟よ........「サムエル記下第1章26節」 

 

 .....本書では宗教的信仰の神聖な対象を俎上にのせることになるが、そのようなことを論ずる者は誰であれ、まさにそのような対象をめぐって相争っている両派の間でずたずたに引き裂かれる危険に曝されるものである。この争いは独特の前提に、すなわちある事が物理的事実としてしめされる・あるいは示された・ときにのみ「真実」であると言う前提に、基ずいている

 

 たとえばキリストが処女から生まれたと言う事実を、ある人は物理的に事実であると信じるが、他の人は物理的に不可能であると反論する。誰にでも明らかなように、こうした対立は論理的には決着のつけられないものであり、それゆえそうした不毛な論争は止めるのが賢明というものであろう。つまりどちらも正しいしどちらも間違っているのであって、双方が「物理的に」という言葉を捨てようと思いさえすれば、簡単に和解できるであろう。「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。 

 

たとえば、ライン河が昔あるとき河口から水源まで逆流したと広く信じられているとすると、この言い分は物理的に受け取ればおよそ信じがたいことと言わざるおえないが、しかしこのことが信じられているということ自体は事実なのである。そうした信仰は心的な事実であって、反論しようもなければ、証明を必要としてもいないのである。   

 

宗教的な発言はまさにこの部類に入るのである。それは例外なく、物理的には証明しようもない対象にかかわっている。そうでなければ、それは有無を言わさず自然科学の分野に入れられてしまい、自然科学によって経験不可能なものとして無効とされてしまうであろう。物理的な事柄については宗教的には何の意味も持たない。その世界では宗教的発言はただの不思議であり、それだけで疑いの眼を向けられるであろうし、また一つの精神・すなわち一つの意味・の事実さえ証明できないであろう。 

 

※ 「なぜねら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。キリストの意味や精神はわれわれの内にあり、奇跡によらずとも感じ取ることができる。 」 

 

奇跡は意味を感じ取ることのできない人々の知力に訴えるだけである。奇跡は精神の実在を理解できないときの代用品にすぎないのである。こう言ったからといって、精神が生き生きとして表れているときにたまたま不思議な物理的出来事を伴うことがあるということを否定するものではなく、ただそうした出来事があったからといって精神を本質的に認識する代わりを務めることもできなければ、精神を認識させることもできないということを主張しているに過ぎない。

 

 ※ 「・・・・・宗教的内容について語るとき、われわれは言葉では表現しえないものを指し示すイメージの世界と関わり合っているのである。」   

 

・・・・たとえばわれわれが「神」と言うとき、われわれが口に出すイメージないし概念は、時代がかわるにつれて多くの変遷を受けてきたものである。その場合、これらの変化が単にイメージ(記号、寓喩?)や概念にのみ関わるのか、それとも 

 

※ 「言葉では表現しえないもの(ヌミノース)に関わるかは_信仰によるのでないかぎり_はっきりとは言うことができない。」 

 

・・・・われわれの知性ではっきりと理解できるのはただひとつのこと、すなわち知性が扱っているのはイメージ・人間の想像力とその時代的地理的制約に左右されそれゆえ何千年もの長い年月の間に何度となく変化してきた表象・であると言うことだけである。疑いなくこれらのイメージは意識を超越した何者かに基づいており、その働きによってその表出は際限なく無秩序に多様化することなく、いくつかの少数の原理ないし元型と関係していることが認められる。 

 

・・・・それらのイメージがヌミノースな元型に・すなわち批判的理性の手の届かないことが分かっている※「情動的基盤」に・基づいていることを忘れてはならないであろう。ここでは心的な事実が問題なのであって、それを無視することはできても、ないと言い切ることはできないのである。 

 

(引用はここまで。) (ヌミノースについて、p127、犠牲p35{ユング心理学辞典(創元社)}。さらに詳しくは、オットー (著)聖なるもの (岩波文庫) 

 

ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

メールヒェンの秘密はイメージの多義性にあるのです。イメージそのものがすでに、伝えられるべき内容なのです。イメージ言語を読むことを、私たちが忘れてしまっただけなのです。 『闇の考古学』

 

 ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

メールヒェンのイメージ言語というのは全く直接的な言語であり、そもそもイメージのレベルで直接理解されるものなわけですが、研究者たちときたら、なんらかの概念に転換しない限り、それが理解出来ないなどと考えているのです。 『闇の考古学』 

 

ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

私には本来イメージ物語を物語ることが重要なのです。なぜなら、イメージは概念よりずっと多くのことを語ると信じているからです。人間の根源的な言語はイメージ言語です。私たちの夢はイメージの中で行われます。そして、ある意味で、あらゆる人間は夢を見ているとき詩人なのです。

 

 ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

深層の意識は単なる思考ではなく、絵を通じて語りかけます。それが語ることは夢や幻想的ヴィジョンの性質を帯びるのです。おとぎ話や神話というのは、そのどれもが夢想的ヴィジョンの性質を持っていますね。この夢想的なヴィジョンには意味が沢山ある。 『MOE 1993年2月号』 

ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

劇はその本質に従えば、悲劇であろうが喜劇であろうが、儀式的なものです。そして、儀式的である限りにおいて、つまり心理学化されない限りにおいて、他の形式と交換できないのです。これはまたもや、儀式化された題材、つまり、神話、メルヒェン、超越的出来事を扱うことを前提にしています。  注(>心理学化されない.......は正確には言語化(概念化)されないの意味か?。C.Gユングの深層心理学においてはイメージを重視しているため。) 

 

ミヒャエル・エンデ‏ @Michael_Ende_jp 

私は、人間はイメージを通して語らなければならないと思います。それは内面的なイメージですが―風景と言ってもいいかもしれませんが―内面的なイメージを深めていけばいくほど、人間というものは世界中どこでも似通ったものであるということが、だんだん分かってくると思うのです。  「物語と夢」   

 

イメージ以外に聖霊(神の現臨)の直接経験(イザヤ、ヨブ、ダマスコ途上でイエスに出会ったパウロなど) 

 

モーリス・ズンデル ‏@M_Zundel_bot 

神秘的な体験から出発して神との婚姻的な認識のうちに自分をおくなら、イエス・キリストの神性を否定させるすべての幻影は消え去るでしょう。唯一の真実な神は内奥のもの、私たちの内奥のものとして特徴づけられるからです。

 

 ミヒャエル・エンデ ‏@Michael_Ende_jp 

ファンタージエンに虚無が広がれば広がるほど、それだけ人間世界に虚偽が氾濫し、そしてほからぬそのせいで、せめてひとりでも人の子がきてくれはしないかという望みが、刻一刻うすらいでゆくのだ。これはもう悪魔の環だった。 『はてしない物語』 

 

カール・グスタフ・ユング ‏@C_G_Jung_jp 

私は象徴(シンボル)というものを寓喩或いは記号というふうには捉えておらず、完全には認識することのできない(秘密・神秘)対象を何とかして特徴づけ言い表そうとしたものだと解している。信条告白がSymbolum(ラテン語で信条[信経]と象徴の両義あり)となっているのもこの意味でである。-アイオーン- 

注(>、完全には認識することのできない.......「解釈しつくすことが出来ない?あるいは言語化できないが体験的に知っている。」) 

 

【新共同訳】ヨハネによる福音書4章~ 

◆イエスとサマリアの女4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。  4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 

 

 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」  4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。  

 

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 

 

 4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 

 

4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

 

 【新共同訳】

 ヨハネによる福音書  

◆イエスとトマス 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 

20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡 に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

 

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

  20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 

20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 

 

ヘブライ人への手紙 ◆信仰 (定義) 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 

 

「蔑みの視線」
http://kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-1919.html

聖書【新共同訳】
ルカによる福音書
◆罪深い女を赦す
 7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
 7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
 7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
 7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
 7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
 7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
 7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
 7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
 7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
 7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
 7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
 7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
 
You Raise Me Up   00:03:20~
 https://www.youtube.com/watch?v=sza4rh1YzsM  

 【口語訳】 コリントの信徒への手紙二/ 03章 06節 
文字は人を殺し、霊は人を生かす。
 
ペテロの第一の手紙/ 04章 08節
 愛は多くの罪をおおうものである。

「聖なるもの」 オットー著 
ユング心理学辞典 p127

ヌミノース
『心理学と宗教』C・G・ユング著、村本詔司訳(人文書院)
「心理学と宗教」の一「無意識的な心の自律性」で、まず、ユングは宗教の定義に言及します。そこで彼は、 『聖なるもの』を書いたルドルフ・オットーの説を紹介します。

「宗教はそれを表わすラテン語から明らかなように、ルドルフ・オットーがいみじくもヌーメン性 Numinosum と呼んだものを注意深く良心的にみつめることです。

このヌーメン性とは力動的な存在もしくは作用で、意志の行為では惹き起こせません。反対に、その作用が人間という主体を捉え、支配するのです。

人間は、その作用の創造主であるよりはむしろ犠牲になっています。ヌーメン性は、その原因が何であれ、主体の条件であり、主体の意志から独立しています。(情動)

いずれにせよ、宗教の教え[と一般的合意]が常に、そして到る所で明らかにしているのは、この条件が個人の外にある原因に関係づけられなければならないということです。ヌーメン性は目に見える対象の属性か、(ミサ、儀礼、元型的イメージ)それとも目に見えずに現存するものから(聖霊の臨在)の影響かのどちらかですが、それが意識にある特殊な変化を引き起こすのです」
ミサによるアナムネーシスとしての想起はヌーメン性の作用を意図的によびおこすことです。

カール・グスタフ・ユング@C_G_Jung_jp
意識以前の知についての神話の教えによれば、あらゆる知は(プラトン哲学の発想と同じ)「想起」であるという見解も説明できる。ツァディックについて以下のように言われているのはその意味である。「ツァディックは誕生以来失われていたものを見出し、それを再び人間のもとへもたらす。」(ノイマン)

5 英雄神話  心理学と錬金術Ⅱ(C.Gユング著p151~)

無意識への下降によって意識は、みずから危険な状態に陥る。王の息子を死に至らしめることは、意識が自分で自分を抹殺する行為に等しいからである。これは、あの始原民族の英雄たちの状況である。、、、、、、、

.........それまで無意識の闇の中に死の影に覆われて存在していた心のあの領域において豊穣な生を生み出すために、みずからすすんで死に身を委ねること以外の何物でもない。

.........英雄神話の下降の目的のメルクマールは殆ど例外なく、危険な領域(海底、洞窟、森、島、山中など)において「めったに手にいれることのできない宝」(宝石、処女、生命の妙薬、死の克服など)を発見するということである。(ヨナ書2章8節では海底で主の聖なる神殿に達する。内なる神殿を見出す。)

.......肉体と肉体諸器官の心的代理物{無意識諸内容}とが、意識に対して断然優位に立つわけである。この状態は英雄神話では、鯨(ないし龍)の腹の中に呑込まれるという形で示される。腹中は大抵の場合、物凄い熱気につつまれていて、、、、、、、、、

この熱気は、キリストもまた下降によって身を投じたところの、あの「ゲヘナ」の火であり地獄そのものであって、キリストのこの地獄行はまさしくその「御業」の一階梯(カイテイ)としての死の克服を目指したものに他ならなかった。

 哲学者が地獄行を行うのは「救済者」としてなのである。「隠された火」は、海の冷たい水の内的対立物である。「アリスレウスの幻像」では、「隠された火」は紛れもなく孵化熱であって、これは(瞑想)における己の内なる孵化(転じて思念の発酵する状態、思いを巡らすことの意)に見事に合致する。

上記は危険でもあるとの忠告 ↓    ↑ 省いていますがの文章の中にもあります。

ミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jp
想像力やポエジーや芸術一般の領域ではもっともであり、いや必要でさえあるものも、そのまま生の現実に当てはめることはできないし、当てはめてはいけない―そして、その逆もそうだ。この境界を愚かにも見過ごしたり、扇動のため、わざと越えれば、狙いとはちょうど反対のことが起きるのだ。『メモ箱』

人為的には危険が伴います。しかし運命的にそのような過程を踏まなければいけない人もいるように思います。
その時(カイロス)に委ねたほうが最善ではないかと思いますが、(自己の促しに従って自我の立場に断念する。)各自の選択(自我肥大を避けるため境界を保つ、相対化)に委ねられていると思います。

ミヒャエル・エンデ@Michael_Ende_jp
サイーデは、危険な力、人を永久にファンタージエンにひきとめてしまおうとする誘惑者です。この世に実在する力は、どんなものでもポジティブにもネガティブにも働きうる。どっち側に作用させるかは、人間の意識が決定する。 『エンデと語る』


ミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jp
いつも予め結果を知りたがる人は、決して、精神と生の、真の冒険に身をゆだねることができません。人は、いわば闇の中へ墜落し、その後、そこで会得した別の編成を整えて、自力で、独立独歩、創造的に前進すべきなのです。 『ファンタジー神話と現代』

犠牲(いけにえ)
聖書【新共同訳】マタイ
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

(創世記22章14節「主の山に備えあり」)


ルカによる福音書/ 12章 48節
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 

 

自己はあまりにも無形で、ほとんど魔法のような存在なので、それを固めるためには儀式が必要なのです。~カール・ユング『ビジョン・セミナー』1305ページ

The Self is so intangible, almost a magical existence, that it needs ritual to solidify it; it is as if the Self were such a tender point that it could hardly come into existence. ~Carl Jung, Visions Seminar, Page 1305

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#7 ドキュメンタリー「契約の箱の発掘 」日本語字幕*

https://www.youtube.com/watch?v=pADcsYMoIpc&t=30s

 

「個性の錬金術におけるヌミノース経験の重要性について」(ヌミノースについて。)
マレー・スタイン、博士