創造性を後押しする人 | 「人生、いつだって発展途上」 SPIRAL TONE

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SPIRAL TONEが音楽制作や、日常の色々を徒然なるままに書き綴ります。

こんばんはお月様

 
本を沢山読む人間になりたいと思いつつ
文学部のわりに本を読まずに生きてきて
今も大して読んでないスパです。
 
 
そんな今日は
「ずっとやりたかったことを、やりなさい」
という本の最初に出てくるワークの中の
あなたの創造性を認めてくれた三人のチャンピオンを列挙するというテーマについて、考えてみた時に、思い浮かんだ人について書こうと思う。
 
 
実際には後押ししてくれたという感じだろうか。
 
 
私は、学生時代ニュージーランドに異文化交流や語学の学習に行ったことがある。
 
その時に、英語を教えてくれたケリーという先生がいた。
 
彼は白髪の少し長めの少しウェービーな髪で
少しふくよかで、いつもニコニコしていて
ウクレレを弾くのが好きな、音楽好きな先生だった。
 
私のホストマザーによると、彼の住んでいる地域は、あまり裕福でない人が住む地域のようだった。でも、いつも笑顔で明るくて、誰よりも優しかった。
 
私が英語を頑張れたのも彼のおかげだった。
積極的に話しかける私の会話を、いつもにこにこ受け止めてくれた。
 
ステイ先から、モーテルまでの足がなくて困っていた私を、休みの日にも関わらず、車を出して送ってくれたのも彼だった。
 
(ステイ先のファミリーは
今日は家族でピクニックなの。だから送れないけど、帰ったらメール頂戴ね。じゃあね!
と言って、パッパー✋とクラクションを響かせて去って行った爆笑)
 
そんなケリーは、休みの日に私達を歴史公園という場所にも連れて行ってくれた。
はっきりとは覚えてないけど、馬車が通ったり、消防車が展示されたり、昔の街並みを再現したような場所だった。
 
そこでケリーは子供たちに、人形劇を見せる活動をしていたのだ。海賊の格好をして。
彼には12歳の息子さんがいて、一緒に人形劇をしていた。
音楽を流し、色んな声色を使い分けてセリフを話し、汗だくになりながら子供たちのためにやっていたように記憶している。
 
学校では、ウクレレを触らせてくれた。
初めてウクレレのチューニングを知った。ギターとはまるで違って不思議だった。
優しい音だった。
 
またある時は、現地の高校に連れて行ってくれて、最後に世界に一つだけの花を一緒に歌ってくれた。これはケリーが用意してくれていた。
 
とにかく音楽が好きな先生で
家とは別の建物に、ドラムやキーボードをおいて
ライブができるようになっていた場所にも
私達を招いてくれた。
 
そこで息子さん達が組んだバンドの演奏も聞かせてくれた。自分達で曲も作っていた。
当時はまだそこまで自作CDとかはなく、そんな時代に自分で自分の曲をCD-Rに焼いていた。
 
因みに息子さんは金髪に近い茶髪のウェービーなセミロングで、かっこよくて、背が高くて、小学生に見えなかった。作る曲のセンスも演奏する姿もなんか洋楽ミュージシャンだった。
 
当時の私にとって全てが衝撃だった。
オリジナルを作ることを諦めていた私からすると、目の前の小学生はずっと先を走っていた。
その頃の私は、初めてまともに作った曲を
友人に「青いな」と言われ
オリジナルなんてダサい。と思っていた。
サークルでオリジナルを小馬鹿にする風潮もあった。だから諦めていた。
 
そんな時、ケリーに
曲を作ったらいいのに
と何気なく言われた。
 
でも私は、素人のオリジナルなんて
作っても意味ないと思っていたので
否定した。
 
 
 
色んな体験をした、プチプチ留学も最終日となり
私は、最後まで面倒を見てくれたケリーと別れを惜しみながら、モーテルでさよならをした。
彼は友人と私にハグをして、笑顔で去っていった。
誰よりも優しくて、心が豊かな人だった。
綺麗な心を持った人だった。
 
 
それから帰国した私は、オリジナルバンドを遊びで組みはしたものの
何故かドラムを叩いていた。
 
何故か、ではない。
タブ譜がないと
ギターが弾けなかったのだ。
 
そして、青いなと言われた曲しか持っていなかった私は、自分の曲を持ってくることはなかった。
 
 
 
少し経って、私は社会人になった。
 
早速、社会人としての自信をなくしながら
休みの日、桜を見たくなって
公園に行った。
そこでアマチュアバンドが演奏していた。
 
それを聞いて、ふと
自分はもっと良い曲が作れる(超失礼)
という根拠のない自信が湧いた。
(ほんと、めちゃくちゃ失礼だ・・・)
 
それから、通勤電車の中で歌詞を書き
メロディを脳内で歌う日々。
 
そんな中
 
ああ、私、ケリーの言ってたこと
もっと早くに素直に受け入れればよかった。
 
ともの凄く思った。
 
 
ケリーは
ただ純粋に好きでやりたければ
やってみたらいいのに
と不思議そうにしていた。
 
私は出来ないと決めつけていた。
 
 
そこから、私は曲を作り始める事になった。