ECMジャケに使えそうな空、パリの12月、2025年。
6月に親友であったタナダさんが亡くなったというのに、自分はまだ生きていて季節が進むのが不思議である。
よって、「タナダさん、ほら秋が来たよ。」「タナダさん、もう冬になったね。」
とパリ中を自転車で走りながらつぶやく。
小学校プロジェクトに出かける早朝のパリ
最近は日曜の夕方に走るのを習慣にしている。
夕方と言っても、17時はもう真っ暗である。
でも真っ暗な中を走るのは面白い。
私は昔から、人々が様々な生活を営む窓の灯りを眺めるのが好きなのだ。
イヤホンからはデイヴ・ホランドビッグバンドの音楽が大音圧で流れている。
瞬間瞬間がクリエイトされていくような音楽。器が宇宙のように大きく、懐が深い。走りながら聴いていると、まるで新しい扉が次々に開いていくようだ。
クリスマスも近づき、クリスマス市が開催されていた。
シャルル・ド・ゴール空港方面に向けて走る高速3号の上を通過。
最近、ヤブウォンスキさんというショパンコンクールの審査員をされた方のインタビューが結構シェアされていて、読んだのだけれど、とても共感した。ここからは彼の言っていることの抜粋。
「あるピアニストが音楽的なコミュニケーション能力に大変優れ、クリエイティヴだったとき、演奏の根本にある基礎教育の欠如についてついては誰もが沈黙します。」
「現代では“才能”という言葉さえ受け入れられません。なぜなら現代社会では、誰もが“すばらしい存在”だからです。批判されたくないし、誰もが勝者です。」
「楽譜に記された多くのことを無視してはいけません。それを無視するのは、アマチュアで音楽を楽しむための方法の一つです。」
ふむふむ。誰もが素晴らしい存在だ、という政治スローガンを音楽にすり替え、音楽的基礎教育は忘却の彼方、楽譜に書かれたことを無視して自己表現、表面的コミニュケーション能力を音楽と履き違える。でも「才能」という言葉はタブー、だって才能って平等じゃないから。
人間の都合優先で音楽は二の次。。まさしく今パリで、傾向として肌で感じていることである。
この間は、19区の最も荒れた移民地区にある小学校で、全員の生徒に金管楽器のレッスンを受けさせ、義務的にブラスバンドを作る、というプロジェクトを見学に行った。
果たして現場は修羅場であった。走り叫び回る生徒たちを着席させるのに30分。やっと座った生徒たちの傍には無惨にピストンが壊された楽器たち。
子供達は一音発するたびに「こんなことやりたくないんだ!」と叫ぶ。
このクラスで1番の台風の目である自閉症の子供が私にそっと言う。「うちのパパが言ってたぜ。音楽はやりたい人だけやるんだって。やりたくなければやらなくて良いんだって。」
私は思わずその子の手をとり、「あなたのお父さんは正しい。」と言う。
政治家たちは音楽を利用し「人間平等」の手柄を見せびらかす。
でもそれってまるで、人間目線の時代遅れな「天動説」みたいじゃん。科学では、リンゴが落ちるのを発見した人の時から「地動説」に転じたんじゃなかったけ。
でも、そんな天動説の蔓延る音楽社会でも、全然悪いことばかりじゃない。
私の周りは素敵な人たちばかりで、最近も次々に連日、楽しい出会いが連鎖している。
私たちは、一緒に音楽の周りを廻っている。
クリスマス時期特有のミルク色の霧に包まれた朝
この間は「ごめんね」という歌曲が、第2回パープルリボン作曲賞というのに入選して本選で演奏された。
入賞は逃したけれど、作曲家になりたいと思ってからは初めての嬉しい結果。
時代がどんな風に変わっても、自分がそこで何をするのか。結局はそれだけなんじゃないかと思う。
小雨の降る路地
最近亡くなったおばあちゃんの作った多色カギ編みの大きなストールが、実家の押入れから発見された、と母が写真を送ってきた。
ばあちゃんが認知症になった時、少しでも症状を遅らせるよう、毎日真面目に少しずつ少しづつ編んでいったものらしい。
この大きな作品の作為のない美しさ。まるで虹のようだ。地動説的な作品。
そうだ、毎日真面目に少しずつ、少しずつ前に進もう。






