今月はお葬式に始まり、行事の多い月で、疲れがたまっているからか、考えることもネガティブ。
昨日から今日にかけてはろくに眠れなかったためか、朝から泣けて泣けて家事も手につかないくらい。
人は死ぬときに自分の一生をまるで映画のようにみるのだとか。(死んでからだったかもw)
で、そんなん絶対見たくない、少なくとも物心ついてからの自分の姿をワンシーンだってみたくないって強烈に思ったせい。一回苦しめば十分だろう。客観的に他人ごとのようになんてとてもみれないだろうってね。
”こんな世界で幸せになれるわけない”という強烈な思いが核になって、体や心の症状としてあらわれるのももちろんだけど、人間関係にもそれが反映されるんだと思う。
私が世界から排斥されるように私もこの世界を必要としていない。だから中学三年生という早い時期から全く気力が出ない状態になったのだと思う。こんな若いうちに人生の90%ほどを投げ捨てて流されるように生きてきた。
今日のお昼から郵便局や銀行へ行く用事があってほんの10分ほどの間に、オートバイと歩行者、自動車と歩行者の接触事故が目の前でおこった。
ハンドルを握るからには責任がある。自動車学校できいたのだろうかそれとも警察の安全教育できいたんかいな?運転が下手なだけに車に乗るときはいつもそう言い聞かせてスタートしている。それが私の10%。完全に人生放り投げ切れない一点。
こんな惨めで情けない人生になってしまうのも自分の足であるいているからこそ。
私のブログ記事に"こんなところにも気違いがいたわ、自分の足で歩きなさいよ"なんてコメントが来たことあるけど、私は自分が駄目な人間だということ、無能だということを噛み締めながら自分の足で人生歩いてます。
こんな人生ドラマっていう映画しか作れなくてとても悔しいです。でもこれ以上望めませんでした。今悔いることがあるとすれば宗教脱会の機会を逸したこと。ただし、脱会後今より自分が納得いくよりよい人生を創れているかといわれたら?もっと人から後ろ指を指されているかもしれないね。宗教してれば心になくてもやらざるを得なくて努力することだってあるもんな。
ただアタシの場合は、宗教団体にいるってことが自分の思う自分の価値をさらに引き下げている。
どんな団体にだって私はここにきて幸せって心から思ってる人がいるというのにね。
心の底から嫌悪感がわくんだからなんとしたものか。今のアタシなら目の前にイエス様がいたっ
てついていかないわ。
3人のお葬式の間考えてたこと。誰からもがんばったねーといわれた人、はしにも棒にもかからないみたいないわれかたしてたけどちょっとした不思議現象があった人。模範的な人生を生きぬいた人……。
自分の足で歩いてない人生なんてきっと1つもないんだよ。
