記憶が鮮明なうちに書き記そうと思って。
最近は近況とか、身の回りの些細な出来事なんかを書いていたが、先日、13回忌になる祖母の墓参りついでに、その祖母の兄妹(7人兄妹らしく、私の祖母は3〜4番目との事)のお墓や家を回った。


山形県米沢市から福島県福島市に点在するお墓や家々、半径50km程の範囲を、国道や山道の景色を眺めながら走って回る。


台風が来るという予報ではあったが、なんとか持ち堪えている曇り空の中、祖母の1つ上の姉にあたる太田のおばあちゃん(と呼んでいる)の元へ訪ねる。94歳になるばあちゃんだが、元気な笑顔で私達を出迎える。


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祖母が亡くなったのは今からちょうど13年前。危篤の報せを受け、荷物をまとめて大学寮を飛び出した記憶がある。

米沢市内の病院で息を引き取った祖母。その身体を実家へと運び、真っ白な布団に横たわらせる。

その夜、親族達が集まり酒を酌み交わす。
程よく酔った父が、
「最後にお袋の横で寝かせてくれ」
と言って、祖母の横に布団を敷いた光景を思い出す。

父を父としてしか見てこなかった自分
初めて父を、1人の子供として見た瞬間であった。


それから間も無くして、祖父も後を追うように他界。祖母同様、市内の病院で息を引き取る傍ら、「親父ーーっ!!」と叫ぶ父とその兄弟の光景には耐える事が出来ず、病室を1人抜け出し嗚咽

今でも思い出すと、涙が溢れそうになる。

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祖父には、右肩に弾痕があった。
第二次世界大戦中、機関砲士として戦火に立っていた祖父は、相手の機関銃をもろに肩に受け貫通。幸いにも腱や骨には影響が無かったものの、2発の弾痕がくっきりと残っている。

幼少の頃、よくそれをさすりながら
「痛くないの?」と聞いていた。

余談ではあるが、背中にもぽっかりと
オオスズメバチに刺された穴が空いていた。


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昔の人は凄い。昔と言うと語弊はあるが、ともかくまぁなんと言うか、凄い。
今ではあまり美徳とされなくなってきた、『忍耐』『覚悟』『我慢』それらが1つの塊のようになっていて、自身を形成する器のようになっている。

時代が変われば人も変わる。時が進めば文化は進み、『成長』と呼ばれる兆しを見せる。たがそれは、一応に良しと言えるものばかりでは無いのかもしれない。


福島の太田おばあちゃん宅に入って間も無く、大量の肉じゃがが登場した。
ケンボウおじさんと言う、父の従兄弟の弟分的存在の人が、我々が福島に向かっている事を伝えていたらしいのである。

(昔の人達は色んなところに兄妹だの親戚だの従兄弟だの、親族では無いが親族みたいな人、などが大勢いて、状況把握は困難を極めた。)


4人分はあろうかという大量の肉じゃが
そこそこいい歳の親戚一同が集まる中、誰も箸を進めないので1人で食す。完食。


喜ぶおばあちゃん。
よく食べるねぇぇ。との言葉。

ええ、ップ…!
お腹空いてました…ップ…から!と返す。

昔はね、本当に食べる物が無かったから…


……。


静かに昔の話しをし始めた


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当時、福島県郡山市には軍事生産工場があった。第二次世界大戦が敗戦へと向かう中、太田のおばあちゃんは数十人の女学隊と共に、その福島の軍事生産工場へと向かった。

悲報が相次ぐ中、それでも白旗を揚げない軍事拠点の飛行場。その空戦に発つ飛行機を何人もの女生徒が昼夜問わず作り上げていたという。

食事は朝のおにぎり一個と、昼のお粥。
そして、晩にもまた一個のおにぎり。

男手は居なかったのか、という僕の質問に、
男はみな、沖縄に向かわされた。と静かに答える。


沖縄玉砕

その言葉が、静かに脳裏を掠める。



太田のおばあちゃんには3人の弟がいた。
その中の一番下、おばあちゃん曰く、一番可愛がっていたという弟が、敗戦を迎える一月程前に沖縄へと飛ばされたらしい。


悔しかった
悔しすぎて死のうと思った

もう戦争は終わるのに、なんで激戦地の沖縄に行かなきゃならないのか

今では静かな笑顔だが
数十年の歳月が和らげたであろうその表情に、僕は微笑すらも返す事が出来なかった。


言うまでもなく
弟さんは還らぬ人となった


悲報を受けた数日後
福島軍事生産工場に大きな空襲があったという



阿鼻叫喚の中、太田のおばあちゃんは数人の仲間と共に民家の防空壕へと駆け込んだ

その最中、防空壕を備えていた民家が爆撃され、その破片の一部がおばあちゃんの左肩にめり込んだ。

見せて。

という僕。

はい。

とおばあちゃん。


…。


その生々しいケロイドと、中に残ってしまった赤黒い塊のようなもの

それを撫り

おばあちゃんは当時、幾つだったの?
と尋ねる。



24



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静かに服を掛け直した。
余所見をしながら、お孫さんの写真や、外に吊るされた数個の干し柿を眺める



何かをしないと。
何か気を散らさないと泣き出してしまいそうだったからだ。



24



素敵な想い出を作り未来を見据え、欲しい物を買って美味しいものを食べて、恋をして、お洒落をして



そんな時間を謳歌する大切なひとときを
爆風と雨霰の焼夷弾から逃げ惑い、大切な人を失う

爆撃で左肩に傷を負う

それでも懸命に生き抜いて来た女性に対し言葉が出ない。


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帰り際、庭に生えている大きな柿の木を見つめて、貰っていい?と尋ねると、甘柿と渋柿の違いを教えてくれた。


形の良さげな柿をもいでいた僕に

それは渋柿だよ、甘いのは先がとんがっているからね。と、教えてくれた。恐らくこれも、『昔』の人達にとっては当たり前の知識だったのだろう。



形の良い柿を捨て、先のとんがっている柿を選別しながら


いまこうして生きているのも、夢や未来に希望を抱いて生きているのも、なんもかも

戦地に出たじいちゃん、空襲から生き延びたばあちゃん、

みんなが生きていてくれたからなんだ


と、心に刻む。


大事にするよばあちゃん、じいちゃん。
自分の命も、時間も、本当に大切にする。
本当にありがとう。



と思った。土曜日だった。


おしまい。