私が20歳くらいの1970年代半ばの話です
スナックでのアルバイトは そろそろやめようと思っていました
一人暮らしをするために急いで借りた6畳一間で 台所トイレは共用
お風呂はすぐ近くの銭湯という暮らしから
二部屋あり 広めの台所とお風呂と水洗トイレの新しいアパートに引越しする
という本来の目的が叶ったからです
アルバイトは半年くらい続けてたのかなあ
もう少し続けてほしいと頼まれ 変わらず土曜日だけということで
夕方6時から閉店の12時ころまで働きました
新しい部屋での暮らしはとても楽しいものでした
開口一番ダメ出しをして なんにでもケチをつける親がいない
それだけでもうほんとにうれしかった
朝起きて 窓を開けて風を入れる お弁当をつくるのも楽しい
仕事は理不尽なこともいろいろあったけど世の中が勢いがあった時代
ボーナスも年間7ヶ月以上もらえた
残業代とか休暇はなかなかとれなかったけど
少しずつ 洗濯機や冷蔵庫などの家電や
ちいさな整理ダンス ベッドなど揃えて お金も出て行くので
やっぱりアルバイトはもう少し続けようと思いました
私がコレクションしていた洒落たデザインのマッチは
いつのまにか母に全部捨てられてしまっていました
私が喫茶店やスナックにいつも遊びに行ってマッチをもらってきてると
思い込んでいたのです
父にも思い込みで言いつけ 父は おなごのくせにタバコだの吸うもんでねえ
職場の外勤の人たちにお願いして せっかくもらってきてくれたマッチなのに
何を言っても知らんふり 話にならない
毒親は自分こそが正しいので無視をします 親密な会話などまるでない
機能不全の家族でした
働いているんだからもっと家に金を入れろと言う
父は給料を入れなかったくせに(これは大人になってから親戚から聞いた
最初に1年ちょっと勤めた会社の初任給は2万8千円だった
2万円を家に入れた 服や靴はどうしたらいいんだろう
前にも書いたけど喫茶店でウエイトレスのアルバイトをして
なんとか服や化粧品を買ったのだ
夏にやっとの思いで買った小花模様のベージュのワンピース
白の細いベルトが付いていて その頃はウェストも細かったので
よく似合っていた
当時は服はとても高かったなあ
もったいないので大事に着てたけど 休みの日に友人たちと会うときに
着ていこうと思ったらどこにも無いのだ
4畳半と6畳のたった二間の二軒長屋 探しようもない
母に聞いても得意技の知らん振り
ほかに着ていける服がないので 問い詰めた
どこにあるの もう出かける時間だから
Y子にやった 欲しいって言ったからっ 背中を向けて吐き捨てるように言う
Y子は母の末の妹だ いつもひとのものを欲しがる
母は自と他の区別がつかない わたしが自分のお金で買ったわたしの服なのに
まだ一回しか着てないのに
母にとって子育ては面倒な「作業」であり 子供は自分に属する「モノ」なのだ
モノだから子供の気持ちなど知ったこっちゃないし 母の勝手にできるのだ
知り合いの美容師が住んでたアパートに空きがあると聞いたので
すぐに家を出たのだった
さて
春先になり ダッフルコートの彼はコートを脱ぎ
薄手のアーガイルのセーターやチェックのシャツを着て
デニム(当時はGパンと呼んでた)と コンバースのバッシュを履いていた
ひとりで飲みに来るようになってもあまり長居はせずに 大学の話や
下宿の友達の話しなどしていた
手の指がきれいで 目を伏せるとまつげがとても長かった
県南の出身で冬は風が強くて寒いけど雪はほとんど降らないのだそうだ
後に結婚してろくでもない理由でそこに住むことになるなんて
ある日曜日 私は 楽しく街を歩いておしゃれなお店をのぞいたり
人気だった水森亜土の雑貨を買ったりして 本屋に入った
雑誌を見ていたら 少し離れた本棚の向こうに彼の頭が見えた
声をかけて 背が高いからすぐわかったよ
彼は180センチなんだと恥ずかしそうに言った
ほんとは183センチなのだが目立つので嫌だったらしい
偶然だね 時間あったらお茶でも飲まない と誘われて
太宰治が通ってたというすぐ近くの喫茶店に入り
初めてフルネームを教え合って なんとなく次の約束をしてしまった
これからバイトの面接があるというので コーヒーを飲んだだけで
あっさりと別れた
なんということもない初デート
私はほかに 映画を観たりドライブしたりする男ともだちは
何人かいたんだけど ほんとにただの友達だったので
男女のグループで海に行ったり スカイラインやギャランに乗せてもらって
十和田湖や 遠くの恐山まで行ったりもしてた
私は二十歳にもなってまだ恋愛をしたことがなかったのだった