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たまには真面目に語ろうかな

存在そのものがふざけているこのブログと執筆者ザキですが、たまには脈絡もなくクソ真面目な事をクソ真面目にクソみたいに書いてみたくなるんです。

という事で、今宵はひとつ、クソガキの戯れ言にお付き合いくださいな。



何かの機会に「命の重さ」という言葉を聞く度に反吐がでる思いをする。
命は尊くてたいそうなものなのだという考えに基づいている。

しかし、若い人たちはそれを知る機会がないから教育の過程で云々…
命の重さを知らないからキレやすくなり云々…
人の命をなんとも思わず暴力的なゲームに云々
有害な情報から子供を守るためにフィルタリング(これ、素直に情報規制って言えばいいのにね)を云々

実に失礼な話だ。

先の震災を例に出すにはまだはばかられる時期ではあるが、命とは実に儚く、脆く、あっさりとなくなるものだと実感した方は少なくないと思う。

命は軽い。
さっきまで川にいた魚が今には胃の中だったり、昨日まで一緒に遊んでいた友達が棺桶に入ってたり。(別にそういう体験があるわけじゃないヨ…)

重い命なんてない。
そのくらいに動かないものなら楽なのに。

それでも、自分の命さえもよくわからない中で、今にも消えてしまいかねない命を支えなくてはならない時もある。

重い命ならいっそ楽なのに。


人に限らず、あらゆる命は軽い。
あまりにあっけない。
だから、ほったらかしてはいけないし、自ら地に立つための重さを得なければならない。
浮くならば、浮くなりの確かなコントロールを確保しなくてはならない。

日本人の規制好きは今に始まった事ではないが、まだ地に立つ事が難しい人たちに重さを入れることを阻害する事などあってはならない。
軽い命は、重さを得て確かに地に立つ必要がある。


命は、最初から重いものではないのだから、軽い命、とりわけ軽くなってしまった命は地に立てる人たちが支えなくては、飛ばされて消えてしまう。
命ってそんなもんだ。

そして、軽くなってしまった命は抵抗が大きいので、一人では抑えきれない。


だから、命を大切にしよう。

「命の重さ」とは、その一言に片付くほどのものですか?





ガラにもないことを語ったけど、やっぱり食べるために魚を殺す時、軽い命を考えずにいられない。
だからと言って殺す事に抵抗はないのだけど…
軽い命をたくさん集めて地に立てる重さが身に付くんだから、ちゃんと感謝しなきゃね。