この市のまっとうな市民であった彼が、いま撃ちくだかれた頭から血を吹き、あたりにねばねばした赤いしみを拡げて倒れている。
十一時五十六分、この市の別の住人がそれを発見し、警察に電話しにいった。公衆電話のボックスに走っていったその市民と、コンクリートの路上に崩れ折れて死んでいるマイク・リアダンという市民とは違ったところはごく僅かしか無い。
ただ一つ違うだけだった。
マイク・リアダンは警官だったのである。(文庫版 11、12頁)
およそジャンルあるところ、それに触れなずんばモグリであるニワカであると叩き出される定番中の定番が本作『警官嫌い』であることに異議を挟む輩がいようか、いやいまい。
というか警察小説が近隣ジャンルから独立したものとみなされる契機となった作品なのだからそもそもここから全ては始まったのであります。
発表されて60年経った現在から見返すとそりゃ古臭さに鼻をつまむ部分はあるにせよ、シンプルな造りの中に現在も量産される警察小説のエッセンスが盛り込まれておりマニフェストとして非常に優秀。とりわけ優れていると感じるのは根幹にある主義主張の明快さ、および小説ならではの魅せ方だ。
「警官もまた一個の人間である」
一言で本作の主張を述べればこうなるだろう。あまりに当たり前すぎてだからなんだどうした、と言われそうだが、この当たり前さ・凡庸さこそ警察小説が自主独立するために勝ち取ったたった1つの冴えない武器なのだということを肝に銘じておかないといけない。ただし本作にとっては命にかかわるファンダメンタルな主張も喉元過ぎればなんとやらで、シリーズ二作目以後はすべてその主張の余波を受けた惰性であることも忘れてはならない。エド・マクベインという一作家による連作がきっかけとなり複数の作家の手になる警察小説という一ジャンルが形成されるに従って、惰性は規範となり主張が主義になった、というべきか。
なんといっても冒頭に引用した第1章末尾が素晴らしい。
殺された「彼」=「マイク・リアダン」は発見者と何ら変わることのない「市民」だった。ただ一点「警官」であるという点を除いて。このように書かれたら「警官」であることがさも重要なように読めるが、「市民」→「警官」というこの語りの順番がまさにトリックの核心。つまり後々ひっくり返すための伏線なのである。このたった1つの伏線を回収するためだけに物語が展開すると言っても過言ではない。主張を効果的に光らせるために極力余計な要素を排して一つきりのトリックを研ぎ澄ましているのだ。
これ以上書くと今以上にネタバレヒャッハーになってしまうので内容については踏み込まないでおく。あとは読んでのお楽しみ。
本作単独で読むと古臭いという以上の感想は生まれないかもしれないけど、たとえばネレ・ノイハウスとかアンリ・ルメートルとかアレックス・グレシアンといった現代の作家と読み比べるとマクベインの余波を未だに感じられてマクベインの株が上がるのでおすすめ。
『警官嫌い』
エド・マクベイン 井上一夫訳
ハヤカワ文庫 1974 原著 1959

