私は親によって不自由を強いられてきた。
我慢を強要されてきた。
だからいつも心の中で思っていた。
いつかこの苦労は報われて自由を手にすることができるのだと。
成長した先には自由が待っているのだと。
それは祈りにも似た感情であった。
私は救いが欲しかったのだ。
辛い現実に耐える理由が欲しかったのだ。
そんな私はいつしか不自由と言うものを受け入れられない
(拒絶する)思想を持つに至ってしまった。
世の中には見飽きるほどに不自由が溢れているというのに。
なんとも不幸な事である。
だが、仕方がなかった。
そうしなければ私はあの時を乗り切れなかっただろうし、
そう思わなければあの時の苦労が報われない。
原因が子供にはどうしようもないところにあるのならば、
それは純然たる子供の自己防衛本能というやつなのだから。
一定の自由を与えられて育った子供はやがて成長し
大人になるにつれ、自分(子供)が親(大人)から
与えられていた自由というものが親(大人)の不自由の上に
成り立っているものであると知り、その慈愛への感謝を以って
不自由の落とし所を見つけることになるのだろう。
受け入れる事になるのだろう。
しかしながら私にはそれが出来ない。
不自由の辛さに耐えに耐えた先に待っていたのが、
不自由を強いられる世界であったのだ。
耐え抜いた日々の不自由が親(大人)の自由(我が儘)の上に
成り立った理不尽な不自由でしかなかったと知ったのだ。
絶望と憎しみから不自由を受け入れることなんてどうしてできようか。
それに自由を与えられなかった私にとって不自由とは
強いられるもので受け入れるものではない。
強いられていたものを受け入れるなど、
私にとってそれは希望を捨てると同意なのだ。
そんな事できるわけがない……