さすらいの「Angry old man」                      -4ページ目

しつこいぞAC

オンナをしつこく飲みに誘って嫌われたり・・
部下をしつこく説教して顰蹙買ったり・・・
犬をしつこく可愛がって噛まれたり・・・・
しつこくして、今まで散々な目に会ってきた。

しつこくして、良いことは何もない。

解っているのか!
ACジャパン
テレビ局。

本当に、しつこくて、くどくて・・・・、
拷問のような出稿量のACのCM。




宮澤章二や金子みすず、




仁科親子やイベチャ オシム
どれをとっても、非の打ちどころのない、良い話ばかり。

しかし、どんなに良い話でも、あのサウンドロゴとセットで
繰り返し何回も聞かされると、逆に反発を覚える。

人間の心理とは、不思議なものである。

しつこくCMを流しているこのAC、
ACジャパン=元公共広告機構
経済産業省の外郭団体、
天下りもいるだろう。

ACジャパンによると、設立の目的は、
「広告を営利目的のためでなく、公共のために役立てようと、
 全国の企業、放送局、新聞社、広告会社 など1200社余りで
 構成される団体である。」とのこと。
「広告を通じて住みよい社会作りに貢献することが、
 私たちの願い」 だそうだ。

嘘つけ、ACジャパン!

クライアントが不祥事等を起こした時や大規模な災害や
国家的な不幸が起きた時などにCMの放送を自粛した場合、
テレビ局は、そのクライアントのCM枠にACの
CM(公共広告)を差し替えて放送する。
つまり、何らかの事情でCMの放送を中止した場合、
ACは公共CMを無料で放送できるという制度である。

しかしながら、媒体料はテレビ局のご厚意で無料という事でなく、
放送を中止した企業がすべて支払う事になっている。
だから「広告を営利目的ではなく」というのは全くのウソで、
テレビ局の営利だけは保証さる。

放送するACのCM素材の選択やローテーションは、テレビ局の判断。
要するに、テレビ局は、視聴者や国民感情などはどうでもよく、
CM枠に穴をあけるわけにいかないから、
機械的にACのCMを放送しているだけなのだ。
たとえば、3分のスポットCM枠、全てが放送自粛となったとすると、
ACの15秒CM12本が放送されることとなる。
だから今回のように、同じCMが短時間に繰り返し流れることになり、
これが十数分おきに繰り返されて、不愉快極まりない事態となるのだ。

公共広告機構がACジャパンと団体名を変更した時のメッセージ
「私たちも、組織のあり方、メッセージの送り出し方などについての熟考を重ね、
その結果、団体名を「ACジャパン」と改称することにいたしました。」

「メッセージの送り出し方などについての熟考を重ね・・・・・」
送りだし方法の熟考を重ねた結果が、このザマか!

広告に携わる人だったら、解るはずだ、
あんな非常識きわまりないバカみたいな出稿、ありえない。


消費者や視聴者を完全に無視した
形だけの社会貢献を取り繕う業界団体と、
金もうけ主義のテレビ局がなせる技なのだ。

いい加減にしろ! 
テレビ局。
良心のかけらも見られない。

ACのCMのクリエイティブは、一年に一回、
会員各社の広告会社の間のコンペで決められる。
このCMは、テーマも良いしカンヌ国際CMフェスティバルなどの
国際的な賞も取りやすい。
だから、大手広告会社とそれなりのクリエーターが、
採算を度外視して、こぞって参加する。
見方を変えれば社会的貢献よりも、
自分たちのクリエイティブのアピールの場。
それだけならまだしも、ACのCMを利用して、
新人歌手や、アニメのキャラクターのプロモーションをする
輩も現れて問題となったこともある。

モラルもへったくれもありはしない。
情けない。

本気で、「広告を営利目的のため」でなく、
公共のために役立てようとするのなら、
制作費は勿論のこと、放送料も無償でやるべきだ。
そうすれば、あんなむちゃくちゃな、放送形態もとらないし
もっと別な方法をとるはずだ。

ACジャパン
テレビ局、
それに広告会社のバカどもたち、
これでは、東日本大震災の被災者の方々に申し訳が立たないだろう。
たまには、本気で人のためになることを、やってみたらどうだ!

今まで散々儲けてきたのだから・・・。




一人は・・・・

一人は、万人のために、
万人は、一人のために。
かつて、そう生きたいと思っていた。

東日本大震災。

福島第一原子力発電所、
地震による事故で、放射能の汚染が続いている。

$さすらいの「Angry old man」                     -福島原発事故









この事故は、アメリカ、スリーマイル島、原発事故以上の規模、
一歩間違うと、ロシアのチェルノブイリに匹敵しかねないとも言われている。

スリーマイル島の原発事故は、人為的ミスによって核燃料である炉心が解け、
放射能が漏れて半径80キロ圏内の住民約200万人が被ばくした。
アメリカ史上最大の原発事故であった。

$さすらいの「Angry old man」                     -スリーマイル










この事故は、チャイナシンドロームとも呼ばれ、解けた核燃料は、
地面を溶解させ地球の裏側、中国にも到達するほどのものだと言われた。

チェルノブイリ原発の事故は、実験中、制御不能に陥り
炉心が融解し核爆発を起こした。


$さすらいの「Angry old man」                     -チェルノブイリ















この事故による放射能汚染被害は、広島原爆の約600倍ともいわれる。
放射能は北半球全体にばらまかれた。
その結果、ロシアは勿論のことヨーロッパ各地は
放射能の汚染に見舞われ、農業をはじめとした
産業のみならず、多くの人々とその子孫へも大きな被害をもたらした。
ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの三国だけでも900万人以上が
被災し、40万人が移住させられた。
事故処理作業に従事した人々は、約80万人、
そのほとんどの人が短期間に大量被ばくし、
放射線障害のために今もなお苦しんでいるという。

チェルノブイリ原発の事故をきっかけにドイツでは、
原発に対する安全性に疑問が生じ、将来的には原発による
電力供給が見直され始めた。
ドイツ緑の党は、一人でも不幸な人間が生まれるのなら、
原発は作るべきではないという反原発運動を展開した。

今回の福島第一原発の事故は、どうだろう。

$さすらいの「Angry old man」                     -福島原発事故2

最悪の結果になれば半径30キロの住民のみならず、
日本を中心にアジア、ロシアなどに多大な被害を及ぼすだろう。

原発の安全性は、多くの疑問がありながらも
電力会社は御用学者の一方的な論理を背景に、安全だと言い続けてきた。
そんなに安全ならば、「東京に原発を作れば良いだろう」という作家もいた。

正論であろう。

今から30年近く前、あるテレビ番組の取材で、
北陸の過疎の村を訪れた時のこと。
そこでは、原発の誘致反対運動が繰り広げられていた。
村の取材先で一人の老婆と出会った。
その老婆が言う。
「危険なのは、百も承知だけど・・・・、
村に原発ができれば、働き口ができるから、都会に出て行った息子が
  戻ってきてくれるんじゃないか。」
この村には、産業もなく若者もほとんどいない所謂、過疎の村だった。
電力会社は、補助金という餌に釣られやすいこの老婆のような
弱者ばかりがいる過疎をねらって原発を建設しようとしていた。
今回のような事故があったなら、この老婆のような弱い人たちが
真っ先に犠牲になるのだ。

一方で、原発には、石油と同じようにたくさんの利害がからんでいると言われる。
核燃料の原材料となるウランは、世界の金融王ロスチャイルド家が
握っていて、その利権による利益は膨大なものだという。
日本にも、この利権に群がる商社、電力会社、政治家、学者などがおり、
原発推進の中心になっているともいわれる。

彼らは、原子力によって、金さえ儲かれば良いという
人の生血を吸う悪魔たちに違いない。

福島原子力発電所の事故により、原発の安全性は大きく崩れた。
今後、半径30㎞に住む人々、家畜、農作物等にどのような被害が出るかは、
計り知れない。
復旧に当たっている人たちが、チェルノブイリの事故の時のように、
子孫の代にまで渡って苦しまないという保証はなにもない。

原子力発電所は、安全ではない。
原発を推進した国家、電力会社は、多くの不幸な人々を生み出そうとしている。

ドイツ緑の党が掲げる、一人でも不幸な人間が生まれるのなら、
原子力発電所は、作るべきではない、という主張は正しい。

おそらく、原発推進派は、言うだろう。
「では、あなた方は、電気を使わないのか」と。
しかし、緑の党の人々は言う。
「一人でも不幸な人間が生まれるのなら、電気を使う事を我慢しよう。」と。

今、私たちは、核汚染の恐怖と犠牲になるであろう
命と引き換えに、電気の恩恵を被っている。

そこまでして発電した電気は必要か・・・・・、

今もなお、福島第一原発とその周辺の人々は、
放射能汚染の恐怖の真っただ中にいる。

「一人は万人のために、
万人は、一人のために。」

かつて、そう生きたいと願った自分を思い出しながら・・・・・・、


沢尻エリカと「比べて」みれば…、

沢尻エリカとうちのカミさん、
「比べて」みれば、当然、沢尻エリカ。


$さすらいの「Angry old man」                     -エリカ


















広告は、常に「比べてみれば・・・」の世界。
絶対ではなく、相対である。

消費者が商品を選ぶ時の構造を単純化してみると・・・、
八百屋の店先で、リンゴが山積みにされている。
リンゴを一つ買うことにした。
傷がない、赤く熟している、形のよい、大きい等を基準にして選ぶ。
山の中のリンゴを次々に比較しながら、選んでいく。
やがて「、比べて」みて一番納得できるものを選んで買う。
・・・・・・まあ、こんな感じだろう。

「比べて」選ぶ、
ターゲットは、差という違いを見つけることによって商品を認識する。
つまり、商品に対する認識は相対によって作り出されるのだ。
だから、「比べてみれば・・・・」という広告のアプローチは正しい。

ALSOKのCM、
残念ながら、「比べてみれば」ALSOKと言いながら、
「比べて」みると残念な結果になってしまうCMである。

ALSOKの競合会社は、SECOM。
CMを「比べて」見れば、どちららを選ぶかは一目瞭然。

ALSOKのCMは、
「ALSOK体操、はじめっ!」
レスリング、金メダリスト吉田沙保里と
ガードマンが、体操をしながら踊るCMである。





このCM、言っては悪いが、
音楽や歌詞、振付の質が悪い。
出演者の設定も最悪。
体操と踊りが面白くないし魅力に欠ける。
根本的に、CMとして成り立つ要素が大幅に欠如している。
要するにALSOKのCMは、歪で傷ついたリンゴなのだ。

もっと致命的なのは、辛うじてホームセキュリティと言うことは解るが、
サービスの内容と競合商品と「比べて」どこに優位性があるかが全く分からない。
CMの目的は、無様なALSOK体操を見せることなのか。

「ALSOK体操、流¬行るといいね」
これでは流行るわけはないだろう。


体操をモチーフとしたCM、けっこうOAされている。
「比べてみれば」、ALSOKのCMのダメさ加減が良くわかるだろう。

たとえば、アセロラ体操





踊ってみたくなるような、振付。
自然と体が動くリズミカルで記憶に残る音楽。
そして、コンセプトに合った出演者たち。
「比べてみれば・・・・」、一目瞭然だろう。



競合他社であるSECOMのCM。
出演者は、木村拓哉、



「比べてみれば・・・・、」
金メダリストといえども木村拓哉にはかなわない。
CM全体のトーンも違う。
ホームセキュリティのサービス内容も解るし、
祖先が心配して、見守るというシュチュエーションもそれなりに面白い。
ターゲットが、ALSOKの傷ついたリンゴよりも
傷もなく形も良いSECOMのリンゴを選ぶのは目に見えている。

なぜ、ALSOKのようなダメなCMが出来あがるのだろうか。
その理由は、広告が「相対」であることを理解していないからだろう。

「比べてみれば」、と言いながら、広告の質、商品のサービス、
企業イメージなど、競合のSECOM「と比べて」みたのだろうか。
おそらく、真剣に「比べて」はいないだろう。
ALSOKの経営陣は、自分たちの企業と提供するサービスを
「絶対」と思い込んでいるからだ。

「絶対」とは、それ自体において完全かつ、
制約されずに成立していることである。
たとえば、国家機関、警察、司法などがそうである。

ALSOKは、内閣調査室を設立した人が創業者。
現在の社長は警察官僚だ。
だから、自分たちの価値基準が「絶対」だという意識が染みついている。

消費者に「比べ」られているにもかかわらず、
歪でキズもののリンゴでも、良いリンゴだと思い込んでしまう。
誰が見ても「比べてみれば」解るのに・・・・、
だから、あのようなCMが出来あがってしまうのだ。

広告会社にも、同じことが言える。
クライアントは、常に取引している広告会社を「相対的」に見ている。
クライアントに対しては、常にコンペ状態なのだ。

クライアントの方を向かないで、
社内の風向きばかり見ている広告会社のバカヤツらや
上司に覚えの良い買い切り媒体や親会社の売り物を
売り込む事に躍起になっている営業には、
「相対」なんて考えもつかないことだろう。

自分の地位が上がることばかり考えないで、
「比べ」られていることにちゃんと気がつけば、
もっと売り上げ、上がるのに。

中小広告会社の皆さん、

広告や広告会社が成り立っている仕組みを理解してないと、
いつまでたっても、「比べてみれば沢尻エリカの方がいいに決まっているでしょ」
ということからに抜け出せないと思うんだけど・・・。

どうします?




自分A


自分を、どこまで晒すことができるだろうか。
ブログを書き始めた時、最初に考えたことである。

自分について書いてみると、見せたくない自分がいた。
今の自分がAだとしたら、人に知られたくない自分Bがいることに気付いた。
この自分Bをどこまで晒せるか・・・、

持ち続けてきたコンプレックス、
卑屈な過去の体験、
卑怯な自分・・・、
晒せない自分Bは、山のようにいる。

自分Bを晒せない人間に私小説は、絶対に書けないのだ。


西村賢太、
彼は、父親の犯罪が原因で自分が極限まで追いつめられる経験をし、
それを、新しい手法を使って私小説という表現手段で
自己を徹底的に晒した作家である。

さすらいの「Angry old man」                     -西村










自分Bを晒す私小説は、今までの私小説の手法である。
彼の私小説の手法は、自分Aと自分Bを弁証法的に統合し、
質的変化をさせ、匿名性を持たせない自分Cを赤裸々に語るのだ。

これは、普通の人にはできない様である。

西村賢太は「苦役列車」で芥川賞受賞を受賞した。


さすらいの「Angry old man」                     -苦役 本















今までの私小説、
たとえば、私小説の始祖と言われる田山花袋の「蒲団」。
逃げられた女の寝ていた蒲団を抱きしめ未練たらしく匂いを嗅ぎながら・・・
と言うシーンでは、自分Aと自分Bの統合した自己体験を
シリアスに晒し惨めさを強調させる。

それに反し、西村賢太の「苦役列車」は、
晒した自分のシリアスな部分を排除しエンターテイメントに転嫁させ、
「ほら、こんなに惨めな奴、面白いでしょう。」と客観化した自分Cを出現させる。

西村賢太は、シリアスな惨めさが売りだった今までの私小説の世界を
エンターテイメント性をもった惨めさに変えたのだ。
ここに彼の私小説の新しさと時代性がある。

このエンターテイメント性を持たせる方法は、彼の文体にも表れている。
たとえば、古臭い言葉使い。
声を出して読んでみると、文章のリズムの取り方が自然と講談調となる。
この文体のリズムがエンターテイメント性を加速させ、
読者を彼、独特の世界へと引きずり込んでゆく。

大したものだ。

才能とは、
能力とは、なんだろう・・・・。

学歴も、
組織も、
地位も
社会も、関係ない。

思い起こせば、極限まで、追いつめられたこともなく、
どこか、逃げ道を作ってきた自分の中途半端な人生。

学生運動の時も・・・
気がついたら、何の総括もしないまま、するっと抜けていた。
芝居の演出家、映画監督など成りたいものはいろいろあったが、
どれ一つ上手くいかず、所詮は「郵便屋」ならぬ
三流広告会社のクリエイティブディレクターの座に落ち着いた。

こんな経歴、小説のネタには程遠い。

私小説を書く才能も能力もなく、
まして苦役をしてきたわけでもなく、いい加減に生きてきた。
これでは、何時まで経っても、自分Aから抜け出せない。

吉本隆明が言う、原体験がないからか・・・、

それとも・・・・、


面白いんだけど・・・・


確かに、面白い!

2010年、ACCフィルムフェスティバルの
グランプリを取った「梅の花」のCM。

テレビでOAされると、
面白くて、大笑いをしながら見ていた。

中年の上司の下心、
部下のOLのしたたかさ・・、
自分の自虐体験を思いだしながら、大笑い。

日常を非リアルにパターン化して表現。
リアルよりも、リアリティを感じてしまう上手いアイディアと演出だ。







しかし、このCMがACCのグランプリを取ったとなると、
面白いだけでは、済まされない。
商品のUSPをきちんと捉え、表現されているか・・・、

否、

このCM、「梅の花」ではなくて、個室タイプの和食屋であれば、
店名を変えれば、どこでも通用してしまう。

表現上の差別化のみで、
商品特性で差別化されていないからだ。

クリエイティブアイディアだけでの差別化だけでは、
単なるレトリックだけだし、広告として正しくない。

そういう意味で、ACCのグランプリは、いかがなものか・・。
シルバー賞がやっとのとこだろう。

最近のCM関係者、コンセプトやトーン&マナーを無視した面白いアイディア
とレトリックに走った表現さえあれば良いCMと勘違いしているのではなかろうか。


昨年、カンヌ国際広告映画祭でグランプリを取った作品と
比べてみれば、違いが良く分かる。

元NBLで俳優Isaiah Mustafa登場。

「ハロー、彼女!」と話しかけ、
矢継ぎ早に、しゃべり続ける。

(セリフの要旨)
「隣に座る彼氏とオレを見比べてみろ、
オレの方がカッコいいだろ、
彼氏をオレみたいな匂いにしたいなら、
二人で同じボディソープを使うのをやめろ。
あんたの彼氏もオールドスパイスを使えば、
男らしい匂いがして、俺みたいな
白馬に乗った王子になれるぜ。」





このCM、表現方法は、テストモニアルで商品特性を
話しているだけのいたってシンプルな構造。
しかし、的確なメッセージ性とインサイトを捉えたクリエイティブ力は、
なかなかのものだ。

たとえば、商品のターゲットは、男性なのに、
「HELLO LADIES」と付き合っている彼女に訴えている。
この戦略が巧みだということで評価さたともいわれている。

一方、ニューヨークのプロダクションにいた人に聞いたところ、
バカっぽいキャラクターとあのしゃべりが、ものすごく面白いという。
残念ながら、英語がダメなので、そのへんの所は解らないが・・・・・。


「梅の花」のCM、面白いだけではないか」と
ある広告会社の若手のCDに話をしてみた。
「トーンだ、マナーだ、インサイトだ、挙句の果てに解りにくいなどと、
クライアントや広告会社のターゲットでもない年寄り連中が潰しにかかるから
日本のCMは、つまらないものだらけになるのだ。」と一蹴された。

ACCの審査員の中にも、
「面白いアイディアが次々に潰されている中で、
梅の花のCMは、理解あるクライアントのおかげで
日の目を見た。」というコメントをしている人もいた。

確かに、面白いんだけれど・・・・、
それだけでいいのですかね。

カンヌのグランプリと比べてみると・・・、
日本のCM、これでいいんですかね。

なんだか、釈然としない。

世界的にコミュニケーションの仕組みが変わりつつある中で、
日本の広告のクリエイティブは、取り残されてしまうのでは・・・と危惧をする。

年寄りの取り越し苦労でなければいいんだけれど・・・・。