実際、私たちの胸が喜びでふくらむのは、何か幸福な出来事を予想したり期待したりするからであり、ふだん私たちが思うように、別の原因があるわけではない。自分が望んでいることが実現しないのではないかと考えたとき、喜びは消え、悲しみが私たちを襲う。私たちの感覚世界という建造物をつねに支えているのは目に見えぬ信念であり、それがなくなると、建物もぐらつく。
欲望がふくらめばふくらむほど、真の所有は遠ざかる。幸福、あるいは少なくとも苦悩の不在という状態があるとすれば、求めるべきは欲望の充足ではなく、欲望の漸進的な減退、欲望の最終的な消滅である。人は愛するひとに会おうとする。だが、会わないようにしなくてはいけないのだ。最後に欲望の火を消してくれるのは忘却だけである。
記憶が衰えてゆくとその絆も緩む
愛や友情、礼儀や世間体や義務感からお互いの絆という幻想で他人をだましている。にもかかわらず、私たちはそういう絆とは無縁のところで孤独に存在しているのだ。
人間は自分から抜け出すことができず、自分の内部でしか他人のことを知ることができないのに、それとは逆のことを口にして嘘をつく存在である。
欲望の力で物事を変えることはできないが、欲望そのものは少しずつ変化してゆくということだ。とても耐えられないがゆえに変えたいと思った状況がやがてはどうでもよくなる。
時が過ぎると、嘘のつもりで言ったことがしだいにまことになる。
私たちの行動を統括する欲望は行動に向かって降りてゆくことはあっても、自我に立ち返ることはない。それは欲望というものがあまりにも功利的で、行動に身を投じても認識を軽蔑しているせいか、、、、
墓場に眠る人々を忘れるように、全面的で穏やかな忘却、それによってもう愛していない人たちから身を離すことになる忘却ーその最も残酷で正当な罰が何かといえば、現在愛している人々にたいしても、同じ忘却は避けられないということをかすかにでは予見してしまうことだろう。
予測さえできれば、私たちは多くの苦悩から逃れることができるはずなのに。