そこにある感覚は、必ずや何らかの説明のつく思考の化学反応によるものである。
それを解明するには、自己の意識の源泉を辿り絶えず対話する必要がある。
だが対話しても納得のいく答えが出ない場合がある。それはその人がある感情の発生を未だ経験してないためか、もしくはより神聖で美的な必然的なものが介入しているためである。
好きな書に読みふけることで、より現実世界に対して不器用になった気がする。
なぜなら自己が拡張して、強固になった末に、相手との距離を多めにとってしまうようになったから。
会話により慎重に、自己の発露に対してより繊細に気づき、それを表現するためである。
自己との対話は、自我の理解に尽きるため、言葉に置き換える必要もなく。都合がいい。
だが、私たちの今経験しているものは、赤の他人との接触である。
塩梅がうまくできなければ、カフカの変身の主人公のようになってしまう気がする。