(※以下、映画「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」のネタバレを含みます。ご注意ください)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とは言っても、映画に関してはちょっとしか触れません。笑

引き続き、主にMJについてお届けします。

ひとまず完結編です。

 

さて、2005年に性的虐待をめぐって裁判が行われた当時僕は中学生でしたが、マスコミの報道の多くはあまりにも偏っており品位を欠いたものでした。

僕は怒りを覚えて当時のテレビ報道を片っ端から録画しており、今でも資料としてDVDに全て残しています。笑

しかしどんなに誠意を欠いた報道であっても、世紀のスーパースターのスキャンダルは世界中で高い注目を集め続けました。

 

その後2009年にMJが亡くなると、今度は大量の「追悼」特集が組まれました。

今度は彼を貶すのではなく、讃えることによって注目が集まりました。

しかし、手放しに賞賛するのではなく、どこかに「疑惑の影」をチラつかせるという報道が多かったように思います。

裁判の報道はまだ多くの人々の記憶に残っていたので、いわば各メディアは自らを正当化させていたという面もあったと思いますし、もちろん単純にただ絶賛するだけではつまらないという「ネタ」としての側面もあったと思います。

 

そして、2019年になって、今度はまた、MJを貶すことによってお金が動いているのです。

しかも、今までマスコミが常に「疑惑の影」をチラつかせてきたことが「伏線」となり、「そうか、やっぱり彼は悪いヤツだったのか。今までもあやしい、あやしいっていつも言われてたしな」と多くの人々の思考が誘導され、余計に反響を呼んでしまったのだと思います。

その上、MeToo運動が高まりを見せているこのタイミング。

僕はMeToo運動の趣旨は素晴らしいものだと思いますが、だからこそこのムーブメントが悪用されることには失望を感じます。

 

真実とウソが恐ろしいまでに混ざり合う時代に突入しつつある今、このような事態はなにもMJに限った話ではなく、日本社会でも世界でも、多かれ少なかれあちこちで起きている現象だといえるでしょう。

 

MJ自身が「ビリー・ジーン」の歌詞の一節で予言的に歌っているように、「ウソがいつの間にか事実になってしまう」ことがあります。

一方で彼は後年、こうも言い残しています。

「ウソは短距離走を走る(速いスピードで広まるけれど、長続きはしない)。でも真実はマラソンを走る(ゆっくりと伝わっていく)」と。

 

 

 

そしてこのような事態に対しては、「あらゆるものを疑いましょう」という安易な結論だけで満足してはいけないのだと思います。

なぜなら、逆説的にはなりますが、まさに「不信感」そのものによって「ウソに騙される」ということもしばしば起こるからです。

 

例えばMJは2005年に刑事裁判の法廷で、アフリカ系アメリカ人が一人も含まれていない陪審団から「全ての罪状において無罪」という評決を受けています。

そして先述した通り、今回のドキュメンタリーの原告二人も以前に法廷で敗れています。

にもかかわらず、このように疑惑が再燃しているというのは結局、「裁判所の判決なんて信用ならない」「権力なんて信用できない」という人々の不信感が影響しているからなのでしょう。

 

そもそも20年以上も前に虐待されたことを今更告発して、それを人々が信じるのは「MJは圧倒的な権力を持つ人物だから裁判にも勝てたのだし、一方で立場が弱かったWadeたちは生前のMJにコントロールされて逆らえなかった」といった主張が存在するからでもあります。

いわばMJは「強き者」で、原告側は「弱き者」たちであったと。

 

確かにMJは「人類史上最も成功したエンターテイナー」としてギネスブックにも認定されたほどの人物です。

しかし実際のところ、特に1990年代以降の彼は多くの人々に裏切られ、騙され、利用され、メディアから貶され続け、圧倒的に孤立していました。

また、彼はアフリカ系アメリカ人として初めて世界的な成功を収めたスーパースターであり大資産家でした。

そのことを快く思わない人々が後を絶たなかったのも想像に難くありません。


見方によっては、彼の死後にマスメディアを用いて一方的に主張を展開する原告側こそが「強き者」であり、むしろMJが「弱き者」だとも言えるのではないでしょうか。

 

このように、考え方次第で、他人の印象やポジションというものはいくらでもすり替わってしまうでしょう。

複雑にいりくんだ現実のなかで、感情論に流されずに一つ一つ事実を検証していくことが何より重要なのですが、

もちろんそれはそれでなかなか骨の折れる作業なので、途中で気が遠くなって、もはや「事実なんて結局どうせ誰にも分からないぜ!」という開き直った姿勢に陥ってしまいがちです。

難しい問題です。

 

そんなわけで、今回の映画のメッセージは個人的にとても響きましたし、ラストシーンにも色々と考えさせられるものがありました。

このような作品がメインストリームで公開されているというところに、少し安堵感も抱きましたが、決して楽観はできません。

なぜならこのような物語は単なるフィクションではなく、すでに現実に起きていることなのですから。

 

スパイダーマン・シリーズの名言に「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉があります。

正にその通りだと思いますが、今や誰でも自由に情報を発信できますし、様々な出来事が瞬時に世界中でシェアされますし、今日まで無名だった人も、明日には超有名人になっているかも知れません。

言い換えれば、いつでも誰もが「大いなる力」を持ち得たり、その力の一部を担ったりすることができる存在だとも言えます。

 

「ファー・フロム・ホーム」でも、スパイダーマンことピーター・パーカーはある日突然「大いなる力」を得てしまったフツーの高校生ですし、

悪役ミステリオも、以前はアイアンマンことトニー・スタークのもとで働いていたものの解雇された無名の人物であり、名も無き「大衆」を扇動することで「大いなる力」を得ようとします。

 

というわけで今作は、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉の意味を現代的な解釈で再び浮かび上がらせた、見事なスパイダーマン映画だったと個人的には思います。

そしてこの映画を生み出したのが「大いなる資金力」を持つハリウッドだったわけですが。笑

 

以上、長くなりましたが、読んでくださりありがとうございました。

まとまらなさそうでまとまったり、まとまりそうでまとまらなかったりする文章をつれづれなるままに書いてしまいましたが、

こういうことができるのもブログの強みなのだと思います。(言い訳じみてますが笑)

今後も色々なことを書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。

 

P.S.

個人的には、東映版スパイダーマンにもいつか復活してもらいたいです。

 

 

 

今回はなかなかヘビーな内容だったので、最後にゆるふわなイラストをどうぞ。