先日2007年6月記)も、現職の閣僚が自殺するなどということがあったが、死ぬことは責任を取ることなどではない。



死刑制度が存続していることもまた、死ぬことこそ、最善の責任の取り方だと錯覚させる一因だと思う。



生きて、改めることこそが責任で、死ぬことは無責任だ。



全て、死ねば終わるという、誤った物質主義的価値観による産物だ。



死んでも、何も終わらない。



死んでも、何も変わらないのだ。



寿命まで、努力を続けるという道を、自殺という方法で自ら放棄してしまったら、苦しみから逃れられるどころか、自らの心の苦しみから抜け出せず、やがて、もう一度現世に再生して、同じような苦しみを経験し、乗り越えなければならないのだ。



だったら、どんなに苦しくても、今、頑張るべきなのだ。



自殺しても、何一つ楽にはならないことを知らなければならない。


話を死刑に戻すが、幸せな人は凶悪な犯罪など起こさないだろう。



凶悪な犯罪者は、自ら、真実の幸せとは何かを知る機会を逸してしまった人たちなのだろう。



しかし、他人事ではないのだ。



彼らに、真実の幸せとは何かを気づかすことができなかったのは、同じ時代を生きる、私たち全員の責任でもあるのだ。



私たちが、もっと努力していれば、彼らは、真実に気づき、凶悪な犯罪を犯すことなどなかったかもしれない。



「類魂の法則」においては、彼らに凶悪な犯罪を犯させたのは私たちでもあるのだ。



もっと言えば、凶悪な犯罪を犯したのは、他ならぬ私たちでもあったということだ。



その上、死刑という合法的な殺人を容認し続ければ、それは、私たちが合法的に殺人を犯しているのと同じことなのだ。



他ならぬ、私たち自身が、死刑囚を処刑しているのに等しいのだ。



そういう意味では、私たち一人ひとり全員が、殺人者だと言っても過言ではないだろう。





スピリチュアル・ブームなどと言われ、スピリチュアルという言葉がもてはやされる今日この頃ではあるが、世論調査などによれば、死刑制度の存続を肯定する人は、減るどころか、むしろ増える傾向にあるようである。



その影響を受けてか、死刑判決の確定も増えているような印象さえ受ける。



残念ながら、まだまだ、スピリチュアリズムが浸透してきているとは言いかねるのが現状なのかもしれない。



しかし、真実を知った者の責任として、正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると、堂々と主張することが大切なこともあるだろう。



一日も早く、真の意味でのスピリチュアリズムの理解の深まり、浸透していき、誰も幸せにすることがないような死刑という名の殺人が、廃止されることを願わずにはいられない。



微力でも、日々、コツコツと、そのための種蒔きをしていきたいものだ。

以下は、昨年の531日から62日にかけての「死刑をなくそう」の再掲です。


死刑に関しては、2007425日に投稿した「やられたらやり返せ???2」でも触れたので、お読みいただきたいが、スピリチュアリズムの視点で言えば、死刑制度はどうしても容認することができない。



なぜならば、死刑制度は誰一人として、真の意味において幸せにしないからだ。



それは、直接的な当事者にとっても、類魂として関わっている私たち全員にとっても、マイナスのカルマの種子を蒔くことに他ならないからだ。



1に、死刑制度は、肉体の死=人間の終焉という、物質主義的価値観による誤った認識を前提にしている。



肉体の死は、人間の死を意味するわけではない。



人間の本質であるところのたましいは、死して死なず、永遠に生き続ける存在なのだ。



だから、たとえ現行法で、死刑に該当するような凶悪な犯罪を犯した人であっても、肉体を消滅させてそれでお終いだと思ったら、大きな間違いなのだ。



憎しみに満ちた凶悪な心のまま、死刑によって無理やり肉体から引き離されたたましいは、霊的世界において、すぐに浄化するはずもなく、現世と霊界のはざ間である幽現界をさ迷い続け、「波長の法則」によって、同じような憎しみや凶悪な心を持った現世を生きる人間に憑依しては、さらに凶悪な犯罪を犯させようとする。



憑依現象は、決して憑依霊にだけ責任があるわけではなく、その憑依霊と同通し引き寄せるような波長を放っていた、現世側の人間の責任でもある。



しかし、凶悪な犯罪の増加の原因が、憎しみや凶悪な心に満ちた憑依霊による憑依現象にあることが多いという現実は無視することができないはずだ。



必要なことは、凶悪な犯罪を犯した人が現世にあるうちに、十分に反省をさせ、憎しみや凶悪な心を十分に浄化させてから、自然に寿命を迎えさせて、霊界へと旅立たせることである。



そうすれば、現世の人間への憑依などを起こさずに、浄化して霊界へと向かうことができるはずなのだ。



そのためには、一刻も早く、死刑制度を廃止して、終身刑制度を創設する必要がある。



また第2に、凶悪な犯罪者に、憎しみの感情で死刑を求めているようでは、いつになっても平和など訪れない。



憎しみや凶悪な犯罪に対しては、「大我の愛」をもって相対する必要があるのだ。



たとえ、どんなに理不尽に思えても、全てを「大我の愛」で包み込んでくことが、私たちにとっての、最大の学びでもあるのだ。



どこまで愛し切ることができるか、それでも愛せるかどうか、私たちは大いなる学びの機会を与えられているのだ。



この世に、偶然に降りかかる不幸もなければ、不運もない。



身の回りに起きた出来事や、目にしたり耳にしたりした出来事には、必ず、自らが学ぶべき、何らかのテーマがあるはずなのだ。



それに気づいて、自らの未熟な利己愛である「小我の愛」を、人の真の意味での幸せのみを願う「無償の愛」、「大我の愛」に改めていくことが必要なのだ。



どんな理不尽に思えることでも、それは自らの未熟さが、理不尽だと錯覚させているだけだと言っても過言ではないだろう。



それなのに、私たちは、いつまで殺したら殺し返せと、復讐心を燃やし続ければ気が済むのだろうか?

2に続く)

死刑については、昨年の531日から62日にかけて「死刑をなくそう」というタイトルで述べた。その内容も再掲するので、合わせてお読み頂きたいが、昨年12月に続いて、昨日(21日)、3人の死刑が執行された。それでも、日本には、死刑が確定し、執行を待っている死刑囚が104人もいるのだそうだ。


最近の凶悪犯罪の増大傾向により、死刑判決も増えているようなので、このままでは、ますます死刑執行が行われる頻度が高まるのではないかと危惧される。


再掲する「死刑をなくそう」と重複する内容は、できるだけ避けるが、スピリチュアリズムの視点からは、死刑はどうしても容認することができないのである。


死刑は、真の意味において、すなわち霊的な視点において、何の解決にもならず、誰一人、幸せにすることのない愚行なのである。


8つの法則」のほとんど全てに関わる問題であろうが、特に「スピリット(霊魂)の法則」と「カルマの法則」、そして「グループ・ソウル(類魂)の法則」が理解できれば、その理由に得心がいくはずである。


もちろん犯罪行為を犯した者を、無条件に許せばよいなどと言っているわけではない。たましいの視点においては、誰でも神と等しく、許されない人など一人も存在しない。しかし、現世には現世のルールがあって、それが破られた時には、反省を促し、その過ちの責任を取らせる必要があるだろう。


ただ、死刑は、その反省を促すことにも、責任を果たさせることにもならないと言っているのである。


確かに、死刑を廃止し、終身刑を設け、自然の寿命を迎えるまでの反省期間を与えたとしても、十分に改心することのできない者もいるかもしれない。しかし、そのような者には、霊界に帰ってからも、真実に気づくまで、いつまでも内観の時間が与えられるはずである。たましいには、永遠の時間が与えられているのだから、慌てる必要はないのである。


かといって、どうせ永遠なら、今、真剣に改心させるための機会を与える必要などないのではないか?とか、どうせ永遠の生命があるのなら、死刑にしたって死なないのだからいいではないか?などと考えるのは誤りであろう。


「カルマの法則」と「波長の法則」を思い出して頂きたい。死刑判決を受けるような凶悪な犯罪者のいる時代に生きていることも、彼らの情報を見聞することも、偶然ではなく必然なのである。すなわち、そこに他ならぬ私たち自身の学びのテーマがあるということなのである。この世に、私たちに関係のない出来事など存在しないのである。


何事も結果主義に陥ってはいけないのだ。終身刑の受刑者に改心する機会を与えて、たとえ思うような成果が得られなかったとしても、何一つ無駄になることはない。そのような者に対しても、神がそうであられるように、大我の愛をもって寄り添っていくこと。いや、そのように最善を尽くすこと。結果ではなく、そのこと自体に価値があり、それこそが私たち自身のの学びであることを忘れてはならないだろう。


世の中を変えるのも、法律を変えるのも、私たち一人ひとりが、霊的な真実に気づき、その理解を深めていくことに始まる。私たちの心が変わり、その本質の意味を理解しなければ、制度や法律だけ変えても意味がないのである。


だから死刑廃止についても、私たちは、大々的にスローガンを掲げて社会運動をするようなことはしない。いつの日か、全ての人が、霊的な真実を理解する日が来ることを信じて、より精度の高い霊界の道具となることができるように、日々、学びを深めていくことこそが重要なのである。