あくまで私の個人的な考えです。誰かの考えを否定するものでも何かを代弁するものでもありません。
以前に介護者は、この病気を通りすぎる人って言った事があった。
私の言葉がたりない事もあって、その言葉を言葉通りに受けとっている人がいるのでいいかえる。
介護者には、早くこんな病気を通りすぎて欲しい。
介護が終わったら、1日でも早くこんな病気の事(多系統萎縮症なんて知らないのが普通)忘れて、自分の為の自分の人生を生きて欲しい。
介護者と罹患者は、どれ程深い繋がりが
あったとしても、100%で解りあう事は絶対ない。自分が壊れていく恐怖はこの病気に罹患しないと解りようがないのである。
ゲス極の歌じゃないけど『私以外私じゃないの』である。パーソナルな性格といい加減さと音楽的才能は、全く関係ない。
ベッキーの事で騒ぎになる前からこいつスゲーなこんな音楽をつくる日本人がいたんだって思ってた。話しが脱線した。
とは言っても、介護してくれる人に言い表す事が出来ない程の感謝の念を持っている。介護者に自分の命も含めて100%で依存している。
色んな事を決めるのに、もう自分の意見とかなくて全部奥さんがいいと思うように楽だと思うようにして欲しい。
本当にそうして欲しいのか解らないけど、選択しやすいように延命措置はしないって文章も用意してる。
本当の気持ちはある。
すべて家族でやってもらいたい。他人の手は嫌だ。
それが負担になってしまうのは重々解ってる。それがどうしようもない事なら、
自分の意に添わない事でも奥さんが決めた事ならどんな事でも自分の意見として100%で納得する。
この病気だと解った頃、私はさっさと終わりにして、とか自分で自分の命をなんとか出来るうちにとか思ったり、言ったりしてた。(そんな事言う奴に限って、さっさと終わりにすればいいのにそんな度胸もなくて、リハビリとか頑張っちゃって機能維持とか生にしがみつくんだ)
それが(早く終わりにしたいとか。)どれ程自分勝手な事、人の気持ちを考えない独りよがりな考えであったか、介護されてる奥様に教えて頂いた。
私はもういろうとか気切とかの延命措置?を自分で決められない。
本音は最後まで側に居て貰いたい。どんな状態でも生きて居たい。それが言ってる事と矛盾してるのは解ってる。奥さんや子供がそんな事になったら、どんな状態でも生きていて欲しいと思うでしょ?
でも、奥さんがもうしんどいってなったら、さっさと終わりにしても欲しい。
負担だと思うようにだけはなりたくないんだ。
次の交差点、なんとなく右だなって思ってる。でも奥さんは左に曲がる。そして案の定迷う事になる。そうなったとしても絶対1mmも左に行った事を非難しない。だってハンドル握ってるのは奥さんなんだから。
決めさせるようで卑怯な事だが、貴方が決めた事が私の望みです。
もう疲れ切って自分の状態で精一杯で、下らない事でも決められないんだ。
ただ立っているだけのようでも頭の中ではもうちょっと右に体重かけた方がいいかなとか昨日よりふらつきが酷いなとか考えて精一杯で立ってるんだ。
前にも言ったけど、この病気のリハビリは砂浜に城つくるのに似ている。
どれ程頑張って苦労して作り上げても
大きな波がきたらあとかたもなくなって
しまう。
今日河原へ行って愕然とした。少し気温が下がったので3週間?ぶりぐらいに行ったんだけど、駐車場から河原の遊歩道へいく凸凹道が歩けないんだ。
つんのめって立て直すが、立て直しが利かないんだ。
それでも、私は諦めない、平気な顔して
いつかそのうちって言って
1日1日を精一杯で生きる。
そうする事が、色んな事を決めさせる
奥さんに対しての唯一の罪滅ぼしだ。