Deep Record

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クラシック音楽(特にオーケストラ)を中心に、興味の赴くところをひたすらマニアックに紹介していきます。

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高校生の頃(約15年前)、とあるクラシックCD評論本で、評論家の許光俊氏が「惑星」の名盤としてチェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの演奏を挙げているのを読んだ。
実際にはチェリビダッケは「惑星」を演奏会で取り上げたことはないと思われ、「チェリビダッケの「惑星」」は完全に許氏の妄想である。詳しい内容は覚えていないが、確か氏はその稿で「チェリビダッケが「惑星」を指揮しなかったことは人類の損失である」とまで述べ、素晴らしい演奏になったはずである旨を微細にわたり熱く語っていたのであった。実際、許氏はミュンヘン・フィルの事務局に「チェリビダッケは「惑星」を指揮すべきである」という投書までしていたとの由である。

現在の許氏はもはやただの痛々しい勘違いジジイに成り下がってしまった感があるが、15年ほど前の彼の評論は熱かった。とりわけこのチェリビダッケの「惑星」のくだりには、私は今でも非常に強い共感を覚えるのである。

まず、「火星」の冒頭からして想像するだに鳥肌が立つではないか。超スローテンポで異常な緊張感を孕んでいたであろう弱音。息の長すぎるクレッシェンド。そして、兇暴でありながらきわめて透明感のある最強奏が、暗黒と混沌と暴力を執拗かつ克明に描き出したはずである。

美しく儚い桃源郷のような「金星」や、スローテンポで細部まで鮮明に抉り出された「水星」。続く「木星」の冒頭はさながら豊饒な音の洪水のようであり、有名な中間部では息苦しいほどに濃密で強烈なノスタルジーが表出されたことだろう。

そして「天王星」冒頭の金管の斉奏(G-Es-A-Hの4音)も、我々の想像もつかないような意味深いものであったに違いない(チェリビダッケが指揮した「シェエラザード」の冒頭のように)。奇矯なリズムも諧謔的というよりはむしろグロテスクであり、ティンパニの連打から始まるクライマックスの強奏は、聴衆の心胆を寒からしめるような阿鼻叫喚が思い切って表現されていたのではないか。
…ああ、何が何でも聴いてみたかった。

なかんずく、「土星」の後半部、そして終曲の「海王星」は、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルにしか表現し得ないような、唯一無二にして空前絶後の音楽となったはずだ。

「土星」の終結部、それまでの暗欝な苦悩と葛藤の一切が昇華され浄化されていくこの場面では、この世のものとは思えない清澄で透徹した響きのうちに、深い哀惜と永遠の安息が表現されていただろう。

そして何よりも、全てが虚無と寂静の彼方へ消えていくような「海王星」の終末。
合唱にまで細かいリハーサルをつけていたチェリビダッケのこと、この宇宙に永遠の別れを告げるような神秘の女声合唱は、聴衆に異様な感銘を与えずにおかないものであったに違いないのだ。


このような後期ロマン派色の強い曲こそチェリビダッケの異常な表現力が最も光ったはずなのだが、なんとも残念なことである。