バスを待つ男
「何や、忘れなしゃあないと思うんや。……せやな一週間も覚えとったら上出来や」
男はそう言った。俺は彼の話を聞きながら、適当に相槌だけ打った。木枯らしが指を鋭く突いて痛い。
「せやったら、色々と困りはしませんか? 人付き合いとか」
「ん? 困ることなんてあらひんよ。笑いながら“ああ、どうも”ってだけで済むさかい」
男は目を細めた。そしてコートのポケットから煙草 を取り出し、ジッポーで火を点けた。ジッポーの色は銀ではなく銅だった。俺が知る限り、それは初めて見る色だった。
「けれども“覚えていますか?”とか言う人もあるんと違いますか?」
文庫本を開いていた俺は、栞紐 を挟めながら訊ねた。寒さを堪 えながら立ち尽くしているというのに、バスは未 だ来ない。既に十分は遅れている。
「そんなん、やるんは学生くらいや。社会人やったら、まずやらんでしょう」
男は声を上げて笑い、そして、意味深そうに横目で俺を流し見た。俺は「そんなもんですかねぇ……」とだけ呟いた。
「――そんなもんですわ」
断言すると、男は白い息を吐いた。もしかしから、それは煙草の煙かもしれない。俺は、男の息と副流煙を一緒くたに吸い、そして少し噎 せた。
「風邪ですか?」
「いえ、待ちくたびれただけです」
鼻を啜ると、男は丁寧にポケットティッシュを差し出した。路上で無料配布されている安物のそれを、俺は大人しく受け取った。一枚取り出し、音を立てて鼻をかむ。近くにゴミ箱がなかったので、使い終わったそれは丸めてポケットへと突っ込んだ。
「ああ、随分と遅れてはりますからね」
時刻表と腕時計を交互に見やりながら男は言った。
「十二分も遅れとります」
携帯のサブディスプレイを見て俺は答えた。
「道理で寒いはずや」
男は肩を竦 めた。
「時間なんて忘れとるんですか?」
――不思議と、そんなことが気になった。男は、この寒さを苦に思わないのだろうか?
「せやな……。忘れとるのかもしれひん。忘れな恥ずかしゅうて適 わん」
「……はぁ、そないなもんですか」
「せや」
男は頷いた。それから「性癖のようなもんや」と前置きをすると、朴訥 と、しかし無遠慮に長く語った。
「いつも混乱しとるさかい、俺の一挙手一投足は皆が恥なんよ。子供の頃から、ずっと毎日一つずつ失敗しとんのや。結果だけ見れば些事 やけどな、けれども俺にすれば大事や。友人との会話がままならなかったり、授業中に上手く答えられなかったり、聞き間違えたり、どもったり――。そりゃ、端 から見れば矮小 もええとこや。夜にでも忘れとる。
けどな、俺は覚えとんのや。自分のも、他人のも。――で、思い出すんや。ふとした時に、デジャブを感じた時に。それで恥ずかしなる。人前に出たなくなる。気分かて最悪や。せやから忘れようと思った。一言で言えば防衛本能やな。俺は俺の自尊心のために、記憶を消すことで防衛しとるんや」
煙草の灰が落ちるのも気づかず、男は延々と話し続けた。俺は只、ボンヤリと耳を傾けながら早くバスが来ないかと待ち侘 びていた。吐く息も既に白さを失い、透明になっている。あれだけ人がいたのに、今は疎 らだ。ポツポツと、待ちきれなくなった人達が歩き出したから。
「――いつから、忘れることを始めはったんです?」
嗚呼、今なら水も温かく感じられるかもしれない。曇天とした、仄 暗く何もかもを遮られたかのような雲を仰ぎながら、男に訊ねた。男は暫 し黙考してから肩を竦めた。
「……分からんなぁ」
呟いた次の瞬間、男は「熱ッ」と叫び、手にしていた煙草を地面へと落とした。既に吸えなくなったそれを靴底でアスファルトと擦りつけると、男は何もなかったかのように言った。
「もう、思い出しもせんですわ。実は、今年の元旦のことすら忘れてはりますから」
「――ああ、一年前の前日ですからね」
元旦を引き合いに出す男に、俺は僅 かな可笑 しさを覚えた。今日は大晦日だった。
「せや。――と、バス来よったで」
男が指し示した数十メートル先は、確かにバスの姿があった。俺はこれで漸 く寒さから解放されるのだと喜んだ。
「何や、話しとる内にアンタの言葉が移っとったな」
到着したバスが扉を開く直前、男はそんなことを言って笑った。どう答えるべきか悩み、俺もぎこちなく笑った。愛想笑いだ。
「したら、おおきに。覚えとったら、また」
「ええ。機会があったら」
手を振る男に、俺も頷いた。扉は僅かな出会いを絶つように、音を立てて閉まった。
「……ふう」
着席し、俺は息を吐いた。足下を撫でるヒーターの温風が心地良い。その温もりに安堵を感じながら、俺は結露で濡れた窓を見た。景色は不明瞭で、その曖昧さが外気と反比例している。まるで、空気以外の全てが腐っているかのようだ。
背に凭 れながら、俺は男を思い出した。気づいてはいないだろうが、俺はもう毎日のように彼と同じ話をしている。迷惑な話であるが、意外と不快感はない。恐らく、俺の中の何かが彼に対して割り切ってしまったのだろう。それは態度かもしれないし、受け答えかもしれない。もしくは、彼への感情なのかもしれないが、それらは結局は憶測に過ぎない。
「――お客さん」
バックミラー越しに運転手が俺を睨んだ。何事かと思い返事をすると、運転手は言った。
「そこ、シルバーシート」
「え? ああ、済みません」
運転手の指摘に、俺は慌てて立ち上がった。
「――空 いとるからええけど……」
横目に見ながら、運転手は溜息混じりで言った。
「いつも、そこに座るのは止めときなや。アンタ、いい大人でしょう?」
運転手の言葉に、俺は恐縮して頭を下げた。頭に血が昇っていくのを感じ、鼓動はヒヤリと歪む。顔中の汗腺が開き、熱い汗が流れそうになるのを感じた。
「済んません。気をつけます」
平謝りしながら、俺はシルバーシートの場所を脳裏に焼き付けながら、次からは絶対に忘れるものかと誓った。
男はそう言った。俺は彼の話を聞きながら、適当に相槌だけ打った。木枯らしが指を鋭く突いて痛い。
「せやったら、色々と困りはしませんか? 人付き合いとか」
「ん? 困ることなんてあらひんよ。笑いながら“ああ、どうも”ってだけで済むさかい」
男は目を細めた。そしてコートのポケットから
「けれども“覚えていますか?”とか言う人もあるんと違いますか?」
文庫本を開いていた俺は、
「そんなん、やるんは学生くらいや。社会人やったら、まずやらんでしょう」
男は声を上げて笑い、そして、意味深そうに横目で俺を流し見た。俺は「そんなもんですかねぇ……」とだけ呟いた。
「――そんなもんですわ」
断言すると、男は白い息を吐いた。もしかしから、それは煙草の煙かもしれない。俺は、男の息と副流煙を一緒くたに吸い、そして少し
「風邪ですか?」
「いえ、待ちくたびれただけです」
鼻を啜ると、男は丁寧にポケットティッシュを差し出した。路上で無料配布されている安物のそれを、俺は大人しく受け取った。一枚取り出し、音を立てて鼻をかむ。近くにゴミ箱がなかったので、使い終わったそれは丸めてポケットへと突っ込んだ。
「ああ、随分と遅れてはりますからね」
時刻表と腕時計を交互に見やりながら男は言った。
「十二分も遅れとります」
携帯のサブディスプレイを見て俺は答えた。
「道理で寒いはずや」
男は肩を
「時間なんて忘れとるんですか?」
――不思議と、そんなことが気になった。男は、この寒さを苦に思わないのだろうか?
「せやな……。忘れとるのかもしれひん。忘れな恥ずかしゅうて
「……はぁ、そないなもんですか」
「せや」
男は頷いた。それから「性癖のようなもんや」と前置きをすると、
「いつも混乱しとるさかい、俺の一挙手一投足は皆が恥なんよ。子供の頃から、ずっと毎日一つずつ失敗しとんのや。結果だけ見れば
けどな、俺は覚えとんのや。自分のも、他人のも。――で、思い出すんや。ふとした時に、デジャブを感じた時に。それで恥ずかしなる。人前に出たなくなる。気分かて最悪や。せやから忘れようと思った。一言で言えば防衛本能やな。俺は俺の自尊心のために、記憶を消すことで防衛しとるんや」
煙草の灰が落ちるのも気づかず、男は延々と話し続けた。俺は只、ボンヤリと耳を傾けながら早くバスが来ないかと待ち
「――いつから、忘れることを始めはったんです?」
嗚呼、今なら水も温かく感じられるかもしれない。曇天とした、
「……分からんなぁ」
呟いた次の瞬間、男は「熱ッ」と叫び、手にしていた煙草を地面へと落とした。既に吸えなくなったそれを靴底でアスファルトと擦りつけると、男は何もなかったかのように言った。
「もう、思い出しもせんですわ。実は、今年の元旦のことすら忘れてはりますから」
「――ああ、一年前の前日ですからね」
元旦を引き合いに出す男に、俺は
「せや。――と、バス来よったで」
男が指し示した数十メートル先は、確かにバスの姿があった。俺はこれで
「何や、話しとる内にアンタの言葉が移っとったな」
到着したバスが扉を開く直前、男はそんなことを言って笑った。どう答えるべきか悩み、俺もぎこちなく笑った。愛想笑いだ。
「したら、おおきに。覚えとったら、また」
「ええ。機会があったら」
手を振る男に、俺も頷いた。扉は僅かな出会いを絶つように、音を立てて閉まった。
「……ふう」
着席し、俺は息を吐いた。足下を撫でるヒーターの温風が心地良い。その温もりに安堵を感じながら、俺は結露で濡れた窓を見た。景色は不明瞭で、その曖昧さが外気と反比例している。まるで、空気以外の全てが腐っているかのようだ。
背に
「――お客さん」
バックミラー越しに運転手が俺を睨んだ。何事かと思い返事をすると、運転手は言った。
「そこ、シルバーシート」
「え? ああ、済みません」
運転手の指摘に、俺は慌てて立ち上がった。
「――
横目に見ながら、運転手は溜息混じりで言った。
「いつも、そこに座るのは止めときなや。アンタ、いい大人でしょう?」
運転手の言葉に、俺は恐縮して頭を下げた。頭に血が昇っていくのを感じ、鼓動はヒヤリと歪む。顔中の汗腺が開き、熱い汗が流れそうになるのを感じた。
「済んません。気をつけます」
平謝りしながら、俺はシルバーシートの場所を脳裏に焼き付けながら、次からは絶対に忘れるものかと誓った。