大事な試験があるというのに愚かな私はThe Nanny Daiariesを見ています。
昨夜はNo Strings Attachedです。
ちなみに吹き替え字幕なしです。
なんというか、大切な友人が皆多忙でいらっしゃらないので退屈です。
あとですね、やはり私には学歴社会よりもキャリア社会の方が向いている気がします。
私の今いる社会は、わりと、というかいつまでも学歴が重要でありますが、私の本当に行きたいそこは、キャリアで成り立っています。
そこに、強く惹かれます。
私は、大学で学びたいんです。
ガッツリ学んで、ガッツリ楽しいことをして、友人とお茶をしてたくさん話して、恋人と静かに過ごす。
そうやって、分別をつけて生きていきたい。
それは、たぶん、ここではできないから。
やることはしっかりして、それでいて、てきとうに自分の時間を持ち、ゆっくり。
今の若い人は、それができないと思うのです。
何か、明確な目的っていうか、自分を確立できるものを、よくわかっていない人が多い気がする。
その日暮らしのキリギリス。
それらが繁殖しているのが、現代の若者社会。
そして、彼らはそれを恐ろしくて、愚かなことだと理解していない。
話し、食べ、騒ぎ、歌う。
喜怒哀楽の激しさは人間らしくて好きだけれど、低俗な価値観だけで生きている、そんな気がします。
無知、を受け入れなくなったのでしょうか。
私には、そんな風に見えます。
無知であることを受け入れる、それは、物事を知る姿勢だと考えています。
私は、自分が無知であることを知っています。
ですから、自分の知らないことを知りたい。世界を見たい。
自分の生きている世界が狭いことを知っています。
ですから、私の知らない、また、私のことも知らない人と出会い、意見を話し、その人たちの見ている世界を見たい。
私の国の言葉、文化、歴史、国の歩んできたことを人に教え、知ってもらいたいし、別の国のそれらを教えてもらい、知りたいと思っています。
好きになれるか、そんなことはどうでもよくて、ただ、自分の見ているものが全てだと思いたくないのです。
それに、思ってもいないのです。
それが、できていないように見えます。
自分の価値観の、若くて、狭いそれに身をゆだね、人の価値観を知る前から否定してしまう。
別に、人が好きなものを好きにならなくてもいいのです。
それの良さを理解できなくてもいいのです。
ただ、どうしてその人がそれを好み、大切だと感じているのか。
それを聞き、それだけは知っていてほしい。
個人の主張ができる、それは、ただ単に自分の好みや意見のみを主張し、押しつけ、異なるものを否定することではないと思います。
自分の意見を他人に分かりやすく伝え、また、他人の意見や価値観も受け入れる。
例え共感できなくとも、それは、自分の客観性を育むことになるから。
そうやって、健全に、本業をわきまえ、自分の好きなことや好きな人を大切にできる。
そんな環境で、生きていきたいのです。
常日頃から、私は周りのペースと合うことができなくて、ある部分では遅すぎて、ある部分では早すぎて。
自分のペースで生きていくことは、それでも、ここではできなくて。
だから、本当に求めている場所へ、行きたい。
それは、わがままでしょうか。
