ノーベル賞と村上春樹もしくは団塊世代 | An Ulterior Weblog

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山中所長がノーベル賞を受賞した。経歴でもわかるとおり、運命的に翻弄されてきた苦労人と言え、このような形で報われたことは他の研究者の励みになる(それにしてもやり手の京大総長はずるい。奈良先端大学院が育てた人材をかっさらっていった)。なお、記者会見で野田総理が政府および政権宣伝のためにいいタイミングで電話を掛けてくるあたり、この政権はもう末期だろう。なぜなら、事業仕分のときに科研費削減を全面に押し出して、野依氏らノーベル賞受賞者から反感を買い、共に先進国として低い予算配分をさらに削ろうという愚策に対して是非やめるように懇願したのが山中所長であり、それでも仕分を実施した民主党の代表がおめでとうと言うのはもう茶番としかいいようがない。せめて愚策の件に関して配慮をすべきであった。

さて、今回、山中所長と同じく今年度受賞候補なのが村上春樹。世界のあちこちに翻訳され、いろいろな国で受賞してもいる。最近の発言などはノーベル賞を明らかに意識してのものが多い。

かなり以前、図書館から借りて1冊読みかけたことがあるが、数ページで放り投げた。伊文学者の須賀敦子の認識のとおりでこれは文学ではない。表現も何だかお子様ランチ的で受け付けなかった。使っている言葉は易しい。しかし、書いていることは妄想癖の人の作り話を聞いているような感じだ。あまりエネルギッシュではないカルト信者と一緒に日々対話をしていたらこんな感じではなかろうか。易しい言葉と言っても星新一とも毛色は違うし、『星の王子様』のような易しさの中に光るものがある、という感じでもない。で、何かというとセックスが出てくる。ネット上では村上春樹は心が病んでるような作品だと評してる人もいる。
ベストセラーにして話題作『1Q84』を書店で手にしたときには、頭痛がして平積みに戻した。やっぱり受け付けない。
どうして村上春樹はこういうわけのわからなさなのか、そしてなぜこんなものにある程度の支持者がいるのか。

彼は団塊世代である。戦後生まれで、安保闘争などを眼前で見て来た。それに参加していたかどうかは知らないが、おそらくしていないと思われる。彼にはそのようなイデオロギー的執念は見当たらない。学生結婚して貧しい中で生き残っていこうとしていたときと、最近のノーベル賞を意識した言動だけが例外と思う。会社員生活や文壇とはずっと距離を保ったままである(でも賞はほしいらしい)。
戦後生まれの典型で彼の発言でもわかるとおり、明らかな左であり、組織とか伝統とか常識とかいったものを遠避けている。彼らの世代は大戦後生き残った人たちが国を信用することができず、左に走ったのをそのまま受け継ぐ形となった。左でないと知識人とみなされないような風潮も手伝っていたと思う。大学に行く者はそうでなくてはならないような状況だったと言えるだろう(このあたり、山本義隆に語ってもらいたいところだ)。

三島由紀夫と東大全共闘の安田講堂での激論(全く噛み合ってないが)は本になっている。それからすると、東大だからこそなのか全く世界を知らず、文字だけで想念を得て弄繰り回している人種たちであることが理解できる。理想(?)は妙に高かったようだ。
しかし、学生たちは欧米の状況と同じで結局、自分たちのイデオロギーを押し殺すもしくは捨ててちゃっかりと会社員になり、大卒なら高給という最大限の時代の恩恵を受け、現在は年金を享受すべく駄々をこねている、現代日本において最も災厄な世代である。
彼らは戦争から伝統を嫌い、よって根なし草だった。自分たちが新しい世界を拓くんだという理念だけはあったかもしれないが、結果的には何も生み出していない。団塊の世代にノーベル賞がいないのはそういう面があるのではないかと思っている。可能性があるのは文学と平和ぐらいだろう。

この戦後のノンポリの世界に村上はずっと住んでいる、他人と一線を画す形で別の夢想の世界に居続けた、というのが私の印象だ。風土とか生き様といったものとはほとんど無縁な世界。だから、中身が感じられず、ふわふわしたわけのわからない登場人物と表現が好きになれないのだろうと思う。(この中身の無さそうなふわふわ感は赤川次郎に通じる気がする。それに自意識過剰を加えると村上になる感じ)
私は右の方にいる。左は結局のところ亡国と民族喪失にしか道を開かないからである。戦争は武器商人以外は誰も望まないが、手を抜けば、国連があろうが国が実質的に消滅していってしまうのである。コスモポリタンになれと言う人がいるが、そう言う人で海外の世界を知っている人は少ない。知ってて言っている人は日本人としては消滅していくことを覚悟している。それはそれで海外で現地人化してもらって構わないが、1億以上の日本人に強制するのは筋違いである。民族、文化の違いはそうは拭えない。国内でも各地域の風土と方言や風習の違いはよくある。

私は彼にノーベル賞を取ってほしくない。昨年の震災以降、日本人に自信や希望を与えることにならないからだ。むしろ疎外である。最近の言動を見ればそれは明らかだろう。それがノーベル賞によってさらに強化されてしまう。彼の言動が受け入れられればられるほど、日本の国力回復にブレーキがかかる。
左なら左で貰わなければよいのにとも思う。大江健三郎にしても反体制的である以上、体制のお墨付きの頂点としてのノーベル賞を狙わない貰わないのが筋だろう(文化勲章を拒否してるぐらいなのだから。天皇陛下から貰うのは嫌でスウェーデン国王から貰うのはいいというのは全く理解不能)。
日本の批評家、つまり文壇は村上春樹を無視し続けた。それが後押しをしたのか、村上は国外に出て日本をもう拠点にしていない。彼は日本のシンボルにはならない。日本人としての根を下ろすことを放棄しているような状況だからだ。川端康成は日本の代表にふさわしいが、村上春樹はごく一部の世代代表に過ぎない。ただ、現代のネット世界というバーチャル空間の拡大に合わせてうまく広がってあたかも日本を代表するように国外からは見えてしまっているに過ぎない。このバーチャル空間は戦後のノンポリ世代の空間と親和性が高い。ネットでの炎上の様子などはまるで三島と全共闘の対決に似ている。我々の意識は徐々に実空間からネット空間にかなり移行してしまっていて、それに支配されつつある。そこに繋がる住民たちも実質的にノンポリが多い。あの団塊世代の時代の残り火が村上春樹を通して、ネットを通じて広まりやすい状況になっている、というのが私の認識である。もちろん、メディアが扱うからというのもあるが、今は既存メディアの力はかなり弱まっている。また、彼が「国外から攻める」という点は日本という社会を考えた場合、賢い選択であったのはたしかだ。

それにしても、熱狂的な村上ファンの間からも彼の早稲田での卒業論文の公開要望を聞いたことがない。ノーベル賞を取れば、全集に収まることになるのだろうか。