いや、こうも続くと思っちゃうよね。本当は思いたくないけど、、、
高校って本当に人を育てるとこなのかな?って。

最近学校でさ《今迄の人生を振り返り、過去、現在、未来を文章にして語る》みたいなやつがあったわけ。

でさ、先生たちから校内一の評価を受けた作品が、まぁ~なんていうんだろ?
なんつーか、ヤンキー 学問に目覚める的な内容だったわけですよ。

昔暴走族にいて散々ワルやったけど今は後悔し、これからは妻や子ども達と共により善く生きる!みたいな。
まぁありがちな不良の更正物語。

で、オレはそれに噛みついたわけ。よせばいいのに

いやね、先生が個人的にその作品を好きになるのは自由だけど、学校として公的に評価するのは違うんじゃないのかな?と思ったんですよ。

だって作中で彼のしたことは、ただの反省だから。

暴走族にいたってことは罪を犯してたってことでしょ?
暴走族=違法集団なんだから。
で、罪を犯した者は例え未成年であれど、基本はその罪(行動)に元づいて罰が下されるものだと思うんです。

しかし彼の作品には、反省(感情)したというような記述はあるけど、罰を受けた、償った(行動)の記述はなかったんですよ。

今からその罪を償えとは言わないけれど、作中に清算不明の罪の記述があるのなら、その作品は学校という公的機関の評価対象からは除外されてもいいと思うんだよね。
だって本人の責任なんだから。

なのに、この作品が公的に評価されるってことは、ルールを破ったって反省すれば済まされるってことじゃん。
これだから最始から真面目にルール守ってる人間が損した気持ちになるんだよ。


ところで、不良はネット上でDQNと呼ばれてバカにされています。
バーベキューで川に溺れて亡くなってしまう事件も『DQNの川流れ』なんて呼ばれ、その死を悼んでもらうことさえもされない存在です。

それは日本全体に不良の更正を美談とする事に対する不公平感があるのだと思う。
なのに何故、学校は不良の更正を美談としたがるのか?
これを今から説明したいと思います。

まず、不良ってどんな存在かというと『学校に反抗する主体性はあるが、ルールの中で反抗する程の知性を持たない人たち』だと思う。

同学年の中で最初に不良になるヤツって勉強出来ないヤツだと思うんだ。
で、学校に反抗するのは解るしカッコイイと思う。自分を劣等だと否定してきたヤツを否定しかえすって男を感じるし、女にモテるのも当然。

でもさ、学術的な知的能力を否定されたわけだから、やり返すなら学術的な知的能力でやり返さないと成立しないじゃん。
だけどそれが出来ないから勉強というフィールドそのものを否定し、やがてルールを破ること自体を目的化しちゃう。

で、ルールなんてクソくらえ!この支配からの卒業だ!
とか言いながら、暴走族や暴力団というよりルールが厳しい世界に入っちゃう。

いや!解るよ!ルールを破ることそのものを美学としているからこそ、ルールが厳しい方が美学が成立しやすいんだろうよ!
でも第三者から見たら滑稽だよ。やっぱ不良だよ。

で、やがてその不良も結婚して家族ができると急に更正したりするじゃん。
でもさ、更正って超ダサいよ。
だって主体性はあるけど知性のない人が、その主体性すらも捨てることが更正なわけですよ。

ルールを破り人を傷付けることを美学としてたくせに、女見つけて家族が出来たら今度は自分の家族を守りたいからって反抗を止める。
今まで傷付けてきた誰かは、誰かにとっての今自分が守ろうとしてるものだったんじゃねーの?

で、そんな元不良たちの贖罪施設と化してるのが教育機関なんですよ。

そして学校はそんな元不良を喜んで受け入れ評価する。
なぜなら、学校の権威を生むためのシステム家父長制度を堅持する上で格好の材料となるからです。

本来学校とは、主に生徒の知性や知的能力を育成・評価する機関のはずです。
その学校が、知性を欠いた反逆者たちが学問に目覚める更正物語を、作中に清算不明の罪の記述がありながら公的に評価するということは一体何を意味しているか?それは、

『先生に反抗すること自体が知性を欠いた行為であり、従順になること自体が知性に満ちた行為だ』

という教員たちの家父長的思考回路の証です。

つまり、作中の罪を許すとか許さない以前にその責任を追及すらしないのは、そこに責任があると思っていないわけです。
先生たちにとって生徒とは、過去にどんな大人びた悪さをはたらこうと、学校の父母である先生たちの教育愛が伝わらなかった可哀想な子どもでしかない。


信じ難いけれども、先生たちの頭の中には主体性という概念が存在しない。
先生たちにとって主体性は自主性と同義であり、知性とは素直さと同義なのです。
だから当然、主体的かつ知的な生徒というのは存在論的に不可能なんです。

先生とは違った考え、違った答えを評価しようとか、
私的に評価するが公的に評価しない、あるいはその逆といった、物差しの使い分けが無いってこと。
これでは高大接続改革の、生徒の新しい価値を育む力を育成することや、生徒を多面的・総合的に育成・評価するなんて無理ということが判ります。
それに何よりも、先生たちの思考回路そのものが欺瞞的なんです。




だって金もらってるじゃん。労働じゃん。




生徒と接することで利益を手にしながら、家父長的なやり方によって権威付けるのは絶対におかしい。
利害を超越してこその愛なのに。


不良にとっての贖罪と、学校にとっての家父長的権威付けを等価交換で行う為というのが、不良の更正が美談とされる核心です。
真面目に生きてる人間からすれば、まさにバカを見るはめになりましたとさ。


~終わり~