"Qu'on me donne six lignes écrites de la main du plus honnête homme, j'y trouverai de quoi le faire pendre."(最も正直な男が六行の詩を書いたとしよう。私はその詩の中から男を縛り首にするに足る何かを見つけるだろう)。

この言葉はフランスの宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリューの言葉とされる。先日「イスラム国」(Islamic State, IS)に参加しようとした北海道大学の学生が任意の事情聴取を受け、また本件に関与したとして元大学教授とジャーナリストが家宅捜索を受けたという事案を見て、何となくこの言葉を思い出した。

今回の任意の事情聴取と家宅捜索の法的根拠は、刑法93条に定める「私戦予備および陰謀」によるのだという。一般市民の反応は「そんな罪があるんだ」という反応であったし、一部報道では「死文化した条文」とか、「適用事例は珍しい」などと伝えられていた。

私自身もこの条文については知らなかったのだが、今回の一件を見ていて、国家権力というものは「拘束したい」と思った人間を既存の法体系を駆使していくらでも拘束できるのだなと思った。冒頭のリシュリューの言葉にもあるように、国家権力は意思さえあればある特定の国民を「縛り首」にすることができる、そういう思いを強くした。

今回の一件で腑に落ちないのは、警視庁公安部外事第三課(国際テロ対策)が件の北大生を逮捕することをしなかったことだ。マスコミも世論もこの北大生に注目しているように見えるのだが、彼自身は世間の目をそらすための人物であろう。公安警察が重視しているのは件の北大生ではなく、本件に付随して家宅捜索の対象となった同志社大学元教授の中田考氏とジャーナリストの常岡浩介氏であったのではないだろうか?

中田氏と常岡氏はともに敬虔なイスラム教徒であり、いわゆる「イスラム原理主義」との親和性が高い人物とされる。中田氏については、現在「正統カリフ制の再興」をテーマとした論文を執筆中であるとされ、このテーマはISの掲げる思想に比較的近い。その活動内容から、両名ともおそらくここ数年は公安警察の監視対象になっていたと想像できる。公安警察は現在のISに対する否定的な国際世論を利用して、両名に対してある種の「メッセージ」を発したのではないだろうか?

公安警察の「メッセージ」を読み取ることはさほど難しくはない。要するに両名に対して、「引き続き監視を行っている。既存の法律を駆使して折にふれて家宅捜索も行うし、必要に応じて身柄の拘束も可能だ」という「警告」を発したいのであろう。

中田氏と常岡氏が実際にISやその他のイスラム原理主義勢力と関係しているかどうかはわからない。しかしながら、公安警察としては彼らがイスラム原理主義勢力と関係していると考え、彼らの活動を妨害することで少なくとも日本国内でのテロを封じ込められると信じているのではないだろうか?彼らが実際にイスラム原理主義勢力と関係しているとすれば、彼らの活動を妨害することでテロを未然に防ぐことができるし、彼らがたとえイスラム原理主義勢力と関係していないとしてても、彼らの活動を妨害することで彼ら自身に不都合が生じるものの、日本社会全体としてはさほど大きな不都合があるわけではないというのが公安警察の論理であろう。まさに「公の安全」という発想であり、「公の安全」のためには少数の人間を「縛り首」にすることも厭わないのである。

自由民主主義国家において法律とは国民の生命、財産および自由を守るべきものであったはずであるが、高度に法律が整備され、その運用が厳格すぎるほど厳格に行われた場合、我々国民の生命、財産および自由が脅かされるおそれもある。今回の一件は、日本という国から次第に自由が奪われつつあることを私に強く印象付けるものとなった。

冒頭の「最も正直な男」が生き延びるためにとる最も安全な対応はどんなものであろうか?それは「沈黙」を貫くことなのかもしれない。ただし、誰も信じられず、何も語れない国というのは「自由な国」とは言えない。